市原悦子と常田富士男という、
これ以上ない強烈な個性の持ち主の独特の語りによるアニメ
「まんが日本昔ばなし」
のテーマソングは、
  「坊やよい子だねんねしな 
     今も昔も変わりなく
     母の恵みの子守歌
     遠い昔の物語り」

という歌い出しで始まったよね。

日本昔ばなしの根底にある一貫したテーマというのは
仏教の教えの根幹になっている
「因果の道理(因果応報)」
で説かれ、
「勧善懲悪」
の結末で終わるように構成されている。

善因善果(ぜんいんぜんか)善い行いをすれば必ず良い結果が得られる(幸せ)
悪因悪果(あくいんあっか)悪い行いをすれば必ず悪い結果を招く(不幸や災難)
自因自果(じいんじか)自分がやった行いは必ず自分に返ってくる(現在の状況)

「善い行いをすれば、良い結果を、悪い行いをすると悪い結果を招く。
また、自分の行いは他人にではなく、必ず自分に返ってくる」
とお釈迦様は説いている。

なので、日本昔ばなしは
「誠実な人と意地悪でズルい人」
「正直者とウソつき」
「優しい娘と性悪な娘」
「働き者となまけ者」
などと対照的な人物が登場し、
「意地悪ばあさんは不幸になり、正直爺さんは幸せになった」
といった構図でつくられている。



桃太郎やかぐや姫、親指太郎、かちかち山など多くが
「おじいさんとおばあさんが住んでいました」
で始まり、桃太郎では
「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」
と続く。

「しば」というのは「芝」ではなくて「柴」。
山林で、鎌で刈り取れるくらいの細い雑木を「柴」という。


柴は電気・ガス、ストーブなどが登場する前は、
炊事やお風呂の炊きつけに使う燃料として生活には欠かせない資源だった。


「柴刈り」というのは「焚き木拾い」のことだよ、当たり前だけど。
我が家は薪ストーブだから、いまだに「山にしば刈り」に行くけどね。

「山へしば刈り」
「川に洗濯」
というのだから、

「あるところ」

は都ではなく田舎を指している。

田舎は
「壁に耳あり障子に目あり」
の監視社会なんだけど、
特に「不幸ネタ」が三度の飯より大好き、という傾向にある。

他人が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われた時の喜び、嬉しさといった

快い感情を「シャーデンフロイデ」という。


「隣の不幸は蜜の味」
「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」
「隣の貧乏鴨の味」
などはすべて「シャーデンフロイデ」なのだ。

渡部健やベッキー、東出昌大など、不倫や不祥事が発覚した芸能人が
「このたびはたいへんご迷惑をおかけいたしました」
とか
「たいへんお騒がせして申し訳ありませんでした」
とTVカメラ越しに観ている視聴者に深々と謝罪する光景があるよね。

視聴者たちは、この芸能人から直接迷惑を受けていないのに、
「いい気味だ」「ざまあみろ」
と、テレビの前でスッキリした気分になることがある。

これも多くの日本人特有の「シャーデンフロイデ」。



人類の食糧調達は、野生を相手にした狩猟採集スタイルで始まったが、
1万年ほど前の新石器時代になった頃に、農耕、牧畜が始まり、
「狩猟民族」と「農耕民族」に大きく枝分かれした。


日本に農耕が根付いたのは縄文時代後期から弥生時代の頃といわれているので、
日本人は「農耕民族」だといわれている。

狩猟採集民は獲物を求めて移動し、

食べ物の多くを平等に分配する傾向があるが、
稲作を中心とした農耕文化では人々は特定の土地に集団で定住、
天候による河川の増水や季節の変化などによる収穫時期なども

予期しなければならないので、天文学や地政学が発達した。

そこから作物や知識、富を独占、分配する

ヒエラルキー(上下関係、階層)が生まれ、

次第に集団は国家へと変化していった。
古来から日本は「集団主義社会」といえる。

聖徳太子の
「和を以って貴(とうと)しとなす」
「何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良い」
という言葉のように、

日本では昔から集団で協力する社会が構築されていたのだ。



童謡「花咲かじいさん」の歌詞、
 「裏の畑で ポチがなく
   正直じいさん 掘ったれば
   大判小判が ザクザク ザクザク

   意地悪じいさん ポチ借りて
   裏の畑を 掘ったれば
   瓦や貝がら ガラガラ ガラガラ

   正直じいさん 臼彫って
   それで 餅を ついたれば
   またぞろ小判が ザクザク ザクザク

   意地悪じいさん 臼借りて
   それで 餅を ついたれば
   またぞろ貝がら ガラガラ ガラガラ

   正直じいさん 灰まけば
   花は咲いた 枯れ枝に
   褒美はたくさん お蔵にいっぱい

   意地悪じいさん 灰まけば
   殿様の目に それが入り
   とうとう牢屋に つながれました」


「正直じいさんと意地悪じいさん」
という対照的な人物が登場し、
「意地悪じいさんは不幸になり、正直じいさんは幸せになった」
といった見事なまでにわかりやすい構図になっている。

昔から代々そこに定住してきた田舎では、
常に近隣との比較をしながら日々変化のない生活をしている。

そこから
「隣の田畑よりうちの方が豊作であってほしい」
という身勝手なシャーデンフロイデ願望が生まれる。

「他人は不幸であってほしい」
「隣の不幸は蜜の味」
という底意地悪い心理が田舎では増殖してしまうのだ。



「情けは人の為ならず」
という言葉があるが、
「情け無用」
「哀れみや思いやりをかける必要がない」
という意味ではない。

もともとの言葉は、
「情けは人の為ならず 巡り巡って己がため」
であり、
「人に親切にすれば、周りまわって自分も恵まれるようになる」
という意味。

田舎では、人の不幸にさも寄り添うような偽善者が多い。
田舎の人の多くは腹の中は真っ黒なのだ。

次回⑤に続く。

田舎の日本昔話的考察①
田舎の日本昔話的考察②
田舎の日本昔話的考察③