どうでもいいが、面接まで辿り着けないことが多い。
あ、いやエントリーシート落ちとかじゃなくて、道的に。
道に迷ってもう何個も面接をきっている。
ていうかアバウトな地図しか載せない会社が悪いよ。辿り着けねぇよ。せめて駅の出口の名前くらい書いとけよ。出口いっぱいあってわかんねぇよ。そして電車遅れんのやめろよ。「混雑のため10分ほど遅れての到着です。」って遅れすぎだろ。
あーこんなことなら早起きして履歴書書くんじゃなかった。もっと寝てればよかった。まじ無意味。あー睡眠時間もったいねー履歴書もったいねー。
もうちんこ。いわばちんこ。
何かといつも欠席をすすめてくるうちの母は、今朝も「三越なんて、やめちゃえば?」と失礼きわまりない発言をしていたが、今日はその忠告に従って家で寝てりゃあよかったと心から思う次第である。
そして今私は、面接会場を探し求めての途方もない旅の末に辿り着いた小さな公園のベンチに腰掛けて、徒労に終わったこの数時間を思い起こしつつ、何とも言い得ぬサンチマンタリスムを噛み締めているのである。
先程、「今日はブランチを食べるために銀座まできたのだ。」と自分に言い聞かせてこの圧倒的虚無感を紛らわすために昼食をとった。
しかし、そこで入った牛丼屋で投げやりな態度の店員が差し出したサラミ丼みたいな牛丼と「銀座」という響きのギャップは、私にいかなる逃避をも許さぬ圧倒的な威力があった。
ああ、虚ろなる人生。
昨日の冷たい雨が嘘のように青く澄んだ今日の空は、私の虚無を糾弾するかのようである。
先週の雨の日、傘を持たずに濡れながら歩く小さなじいさんを見かけ、「傘、お貸ししましょうか。」と柄にもない親切を試みた。
しかしそれは、私が私の虚無を埋めんがためにあのじいさんを利用しようとしたのだろうか。
だからこそ、あのじいさんは「いいです!」と頑なに私の申し出を拒んだのやもしれぬ。
我が心中の不純なる自己満足を、あの老人は看破したのやもしれぬ。
あの時、私はどうして傘を貸そうとしたのだろう。
一度、雨に打たれる彼の横を、自分は傘をさして通り過ぎ、なんとも冷酷なことをしている気がして、引き返した。
そのこと自体は、本当の親切心から出たものと見ることもできるかもしれない。
しかし、私は無意識のうちに、あの小さな老人を自分より卑小なるものと決めつけて、彼を助けてあげようなどというような、可哀相だなどというような、愚劣なる優越感を抱いていたのではないか。
自分より弱いこの老人ならば、私を必要としてくれるのではないか、私の親切を喜んでくれるのではないかと、そんな卑怯な打算をしなかったと言い切れるか。
そう考えて、そうしたわけではない。
しかしそういう考えが、心のどこかにはあったかもしれない。
老人の拒絶に、少しくショックを覚えたのは、その証拠ではないのか。
人は、弱いが故に人を求め、弱いが故に人を拒む。
独りじゃ生きていけない。
だから、居場所をもとめるのだ。
えー、というわけで、病んでます。