その事実に気付いた時、弓手師は「勝った!」と思った。
ある企業での面接からの帰りのことである。
その日、他に一社の面接をすませ、その会社での面接に臨んだ弓手師は、少々疲れていた。
ここのところ毎日のように面接が日に二三社入り、おまけにその後がっつり部活の練習であるから、身体を休める暇がない。
連日、朝6時に起きスーツを着て授業と就活に出掛け、部活の稽古をすませて夜11時に帰宅する。その後夕飯を食べ、風呂に入り、床に就くのは大抵深夜1時頃になる。
このような生活を二週間も続けていると、いかにガリマッチョで知られる弓手師と言えどもさすがにバテ始めている気がする。
ちょっと油断するとすぐ眠くなる。
今では教室やハンバーガーショップは、彼の仮眠所となってしまっている。
しかし如何に疲れていようとも、人生を左右するであろう面接においては、いい加減なことをすることはできない。
眠い頭に鞭打って、丁寧に、スマートに、失礼のないよう平身低頭、ぴしっとした態度を心掛けねばならない。
人事は我々の生殺与奪の権限を掌握しており、万一無礼でもあれば即刻斬り捨て御免の憂き目に遭うことは間違いないからだ。
しかし、そんな健気な学生の姿を嘲笑うかのように、面接官は面接室に踏ん反り返り、「あいつはなんかうざいから不合格、あの娘はかわいかったから合格。」と人の価値を平気で上から値踏みしているわけである。
そこにおいては、面接官と学生は対等ではない。如何に表向きは対等なコミュニケーションを装ったとしても、その本質には完全なる支配被支配のヒエラルキーが存在しているのである。
その日も私は、いつものように礼儀正しく、恭しく、理路整然と面接官の質問に答え、「どうもありがとうございました、失礼致します。」と挨拶をして面接室を後にしたのであった。
いつも通りの就職活動、いつも通りの面接である。
上手くいっているのかいっていないのかわからないながら、私は全ての面接で、私が為しうる精一杯の誠意で面接官に頭を下げ、完全な謙譲語と寸分の隙もない尊敬語を駆使して礼を尽くしている。
それは、面接官と学生というヒエラルキーへの絶対的服従を示す行為であり、そのことはこの時も変わらなかった。
だが、ただ一点だけ、いつもと違うことがあった。
それに気付いたのは、帰りの電車に乗りこんだときのことだ。
そしてその瞬間、私はその一点の違いがあまりに偉大な違いであり、全てを転覆させ得るものだと知ったのである。
…そう。
チャックが開いていたのだ。
「ずっと、見ていたのか。」
私は思った。
そう、私が面接官の目に見えぬ絶対的支配に屈していた間、彼はその大きく開け放たれた社会の窓から、全てを見ていたのだ。
その窓から社会をあまねく睥睨し、この社会が作り上げた下らぬヒエラルキーに従って一遍の寸劇に興じる二人の男を、彼は嘲笑っていたのだ。
あの時、あの場を支配していたのは、私でもなければ、面接官でもない。
彼だったのだ。
それは、この世の全ての不正義と不公正に対する雄叫びであった。
社会をも、世界をも超越した本当の正義と公正からの強烈な糾弾であった。
彼は、その窓から全てを見通していた。
この社会に服従して、気付かぬうちに平然と不正義を行う私達全てを嘲笑いながら。
すなわち私はこの時、理性でいつも通り社会への服従を示しながら、一方で、肉体では、本能では、世の中のあらゆる不条理に対して挑戦の雄叫びを上げていたのだ。
私は確信した。
この面接では、たとえ合否に敗れたとしても、勝負には勝った、と。
そしてその事に気付いた時、私は悟った。
トイレに行ったら、その都度ちゃんとチャックをチェックせねばならない、と。
ある企業での面接からの帰りのことである。
その日、他に一社の面接をすませ、その会社での面接に臨んだ弓手師は、少々疲れていた。
ここのところ毎日のように面接が日に二三社入り、おまけにその後がっつり部活の練習であるから、身体を休める暇がない。
連日、朝6時に起きスーツを着て授業と就活に出掛け、部活の稽古をすませて夜11時に帰宅する。その後夕飯を食べ、風呂に入り、床に就くのは大抵深夜1時頃になる。
このような生活を二週間も続けていると、いかにガリマッチョで知られる弓手師と言えどもさすがにバテ始めている気がする。
ちょっと油断するとすぐ眠くなる。
今では教室やハンバーガーショップは、彼の仮眠所となってしまっている。
しかし如何に疲れていようとも、人生を左右するであろう面接においては、いい加減なことをすることはできない。
眠い頭に鞭打って、丁寧に、スマートに、失礼のないよう平身低頭、ぴしっとした態度を心掛けねばならない。
人事は我々の生殺与奪の権限を掌握しており、万一無礼でもあれば即刻斬り捨て御免の憂き目に遭うことは間違いないからだ。
しかし、そんな健気な学生の姿を嘲笑うかのように、面接官は面接室に踏ん反り返り、「あいつはなんかうざいから不合格、あの娘はかわいかったから合格。」と人の価値を平気で上から値踏みしているわけである。
そこにおいては、面接官と学生は対等ではない。如何に表向きは対等なコミュニケーションを装ったとしても、その本質には完全なる支配被支配のヒエラルキーが存在しているのである。
その日も私は、いつものように礼儀正しく、恭しく、理路整然と面接官の質問に答え、「どうもありがとうございました、失礼致します。」と挨拶をして面接室を後にしたのであった。
いつも通りの就職活動、いつも通りの面接である。
上手くいっているのかいっていないのかわからないながら、私は全ての面接で、私が為しうる精一杯の誠意で面接官に頭を下げ、完全な謙譲語と寸分の隙もない尊敬語を駆使して礼を尽くしている。
それは、面接官と学生というヒエラルキーへの絶対的服従を示す行為であり、そのことはこの時も変わらなかった。
だが、ただ一点だけ、いつもと違うことがあった。
それに気付いたのは、帰りの電車に乗りこんだときのことだ。
そしてその瞬間、私はその一点の違いがあまりに偉大な違いであり、全てを転覆させ得るものだと知ったのである。
…そう。
チャックが開いていたのだ。
「ずっと、見ていたのか。」
私は思った。
そう、私が面接官の目に見えぬ絶対的支配に屈していた間、彼はその大きく開け放たれた社会の窓から、全てを見ていたのだ。
その窓から社会をあまねく睥睨し、この社会が作り上げた下らぬヒエラルキーに従って一遍の寸劇に興じる二人の男を、彼は嘲笑っていたのだ。
あの時、あの場を支配していたのは、私でもなければ、面接官でもない。
彼だったのだ。
それは、この世の全ての不正義と不公正に対する雄叫びであった。
社会をも、世界をも超越した本当の正義と公正からの強烈な糾弾であった。
彼は、その窓から全てを見通していた。
この社会に服従して、気付かぬうちに平然と不正義を行う私達全てを嘲笑いながら。
すなわち私はこの時、理性でいつも通り社会への服従を示しながら、一方で、肉体では、本能では、世の中のあらゆる不条理に対して挑戦の雄叫びを上げていたのだ。
私は確信した。
この面接では、たとえ合否に敗れたとしても、勝負には勝った、と。
そしてその事に気付いた時、私は悟った。
トイレに行ったら、その都度ちゃんとチャックをチェックせねばならない、と。