師走も近くなると喪中はがきも年中行事のひとつ。

賀状やりとりしてる友人から来るものは、以前は親御さんなどの永眠によるもの。

だが 3年前、旧友の奥方が差出人だった時はショックだった。

タカシとは同い年、勉学よりバイクとゼミがとり持ったような仲だった。

お互い性格的にベタベタするタイプじゃないが、一緒の時は誰より良いコンビだったと 今でも思う。

就職して家庭を持って住む世界が違っても、偶さか一緒に杯を傾けることもあった。

老いると共に会う事も少なくなり、喪中はがきで亡くなったと知った。

ご焼香に彼の終の棲家を訪ねた時、死んでも友人達には知らせないでと奥方が言われてたと知った。

真新しい仏壇の前で、

 ”まだ遺骨もここにあるんです、きっと彼も会えて喜んでいます”

そう奥方に言われ、その年の年賀状の事を思い出した。

”年賀状も卒業かな” と書いてあった..自分の弱音を人に言わない彼の気持ちを汲み取れなかった事は今も後悔している。

 

それから早や3年過ぎ、今年鬼籍に入られたのはワカマツ.. お互い呼び捨てにしていたのだが、埼玉県の学芸員となった若松博士は享年69才。

同じ法大でも彼は法学部、私は経済学部と本来なら接点のない間柄だったが、知り合ったのは博物館学芸員資格科目で一緒になった事だった。

 

昼間の通常科目と違い資格科目の授業は夕刻前後だったから、終業後に女生徒も交え市ヶ谷の喫茶店で軽く一杯を嗜むこともあった。

また、彼の気さくな性格に甘えて実家に泊めて頂いたこともあった。

それは羽目を外したりなどではなく、埼玉ツーリングでのこと。

都心より広々して空気の良い彼の家で カワサキW3と、彼の宝物、畑で見つけた「はにわ」を見せてもらった。

後年の自序にも記されているが、その埴輪が考古学探求のきっかけだったのだ。

その時、これは届けないといけないんだけどね~、もう少ししてから..と言っていたが、後日近くで工事が行われた時「巫女の人物埴輪と円筒埴輪」を彼が採集し教育委員会に届け出たところ、彼がその遺跡の第一発見者になったのだった。

 

VX800にとっても久々の遠出、不祝儀袋をタンクバッグに入れ出発。

  ダメもとで高坂SAで彼の家に電話を入れてみたが、伝言入れただけ。

 

東松山で高速を降り、吉見百穴を横目にR17号へ向かう。

  フォトは昔のものだが、ショッカー基地のロケ地みたいな所に遺跡の数々。

 

私は、知人に対しあまり遠慮がない性格にバイクの足、学部授業同級生で遠くは福島のご実家に泊めて頂いたこともあったが、人様の生活から学ばせて頂くことは多い。

ハタチ時分の自分が甘やかされて育ったとは思わなかったが、同じカワサキ乗りと云っても(彼はダブワン~3自分はマッハ4) 彼は剣道もやり折り目正しく学ぶ事も多く、尊敬に値する人物と思っていた。

そして御実家で 優しい御父上が第二次世界大戦でのソビエトから帰還されたこと等々を伺うことは本を読んだだけの勉強とは違って得られるものがあった。

 

学生時代、自分の博物館実習は 秋葉は万世橋の ”交通博物館 ”だった。

(現在は MAACH ECUTE、レストランとショッピングビルになっている)

電車、自動車、バイクから航空機まで展示され、交博に就職した大学の先輩が鉄道模型の実演とナレーションを担当していて、Young at Heart には楽しい所だった。

だが、博物館なんて簡単に雇ってくれるところではなかったから、自分は一般企業に就職した。

一方、若松君は採取した埴輪で人生の意を決し大学院に進み正職員でなくても、さきたま資料館でアルバイトしながら同志社大教授に師事され研究、調査に専念。

 

それから殆ど付合うことも無くなっていたが、私が二十数年前に神田古書店で埴輪の書籍を見つけ彼に送ったことがあった。

彼の所有する蔵書になかったので、とても喜んでくれ、2003年 彼の関わった国立歴史民俗博物館(千葉)の20周年記念の展示会を勧められた。

自分は埴輪にさほど興味があった訳ではないが、千葉の博物館までの道中や沢山の埴輪は非日常的だったので楽しむことができた。

↑「はにわ ―形と心―  」2003年3~6月国立歴史民俗博物館 

   (中)教科書にも載っていた性器を強調された男女の像は微笑ましい..

   (右)若松君の名は資料提供者として名前が残っていた。

 

建てて未だ十年経っていないであろう彼の終の棲家は一度も行ったことがない。

向かう高速道で悔やんだことはタカシの時と同じ。

奥方に近くで会うのは数十年振り、彼の結婚式以来なので面識無いに等しい。

遺影を拝ませていただいた時、先に奥方のティアドロップを見た。

彼とは、今度はワインやビール等でなく、日本酒を酌み交わしたかった。

酒が好きだと聞いていたがハタチを過ぎたばかりの当時、ふたりとも女学生の前でヘビーな飲酒なぞする気にもなれなかったからだ。

タバコの方は、数年前に止めるような事も聞いたが、亡くなる間際まで書斎でひとりになると吸っていたらしい。

タカシにしても同じだが、彼も分かった時は末期がん..。

年賀状をもらった時、ガンになった彼の意中を察していれば、せめて連絡でもしていれば覚悟はできたろう。

彼の父は96才までご存命だったので長生きの家系と思っていたようだと、奥方は明るく微笑みかけてくれたが、気の利いた会話もできなかった。

だが、彼女の言葉に救われた。

「もう家を出ている子供達から他人を家に入れてはいけないと言われてるんです。

でも、カメイさんのことはお話に聞いていましたから..」

また、「主人が私に残してくれたのはこれだけです、いくつかあるのでどうぞ。」

と差し出されたのはニューサイエンス社の考古調査ハンドブック「埴輪」。

                           No.22は 彼の著書 :  考古調査ハンドブック | 北隆館

 

若松家に別れを告げ、帰路は岡部経由で本庄から関越にのる事にした。

夕刻、突然 VX800のポジションライトが不定期に点滅を繰り返した。

その顛末は、また後日。