父の一周忌 | 気分良く前向きに生きよう & テクニカルを楽しむ

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日常感じた心の世界に通じることや脳の働きに関することを書きながら、PCや携帯やプログラミングなどの技術的なことなども書いていこうと思います。

先日は父の一周忌でした。

実は父の死に関して、自分の中では完結できていないことがあります。
それは、自分が父の寿命を縮めてしまったのではないか?という疑念です。

もちろん、直接の父の死因は腎臓の機能が急速に低下していたことであり、それに関して一年以上大きな病院に通って見てもらい、腎臓の治療に関して定評のある先生に担当してもらっていたので、自分に何かできることがあったっとしてもごくわずかだったと思います。

ただ、本来であれば人工透析をそろそろ開始するべき状況だった時に本人がためらい、一年前の時点で開始できていなかったのですが、その部分に関しては、家族のサポートが足りなかったことにも原因があると思います。

例えばもしも、自分が今の仕事をやめて父と一緒に実家で住むか、毎日顔を出せるくらいの近距離に住んで、できるだけ食事も一緒に取り、病院に行く日には送り迎えをするといった、いわゆる「家族らしい」対応をしていたならば、父は安心して人工透析の準備の手術(手首の血管の手術)を早々行い、もう少し長生きしてもらえたかも知れません。
(もっとも、父の腎臓の悪化は、最終的にはかなり急速に進んでいたようで、人工透析を開始していたとしてもそれほど長くは持たなかったかもしれないとも言われていますが)


また、やはり母が亡くなってからの3年間の一人暮らしは、かなり負担がかかったのではないかと思います。
「男は家事を一切しない」時代を生きてきた父にとって、食事の支度から洗濯から何から何まで一人で行う生活は、いくら年金生活で働く必要がないとはいえ、きつかったものと思われます。

もちろん、本人から、「一緒に住んでほしい」とか「時々は家事を手伝ってほしい」といったようなことを言われたことはなく、またそれをほのめかすような雰囲気も全くなかったため、それに甘えてしまっていたのですが、今にして思えば、本人が直接言わなくとも、息子として父の状況を察し、本人が「うるさいなあ」と言っても時々世話をするくらいの対応が、本当は必要だったのではないかと反省しています。


ただ、そういうことをくよくよ考えていても父が生き返るわけではありませんし、むしろ、彼の人生が最高のものであったことを明確にするためにも、我々の対応が悪かったために彼の寿命が縮まったなどと考えるべきではなく、父は父にとっての最高の選択をし、彼が望んだ人生を送ったのだ、と我々が思う方が、ずっといいのではないかとも思います。


今気になるのは、天国から父が自分を見ていて、満足してもらえているかどうか、というところです。
きっと向こうの世界からは、人間の目に映る表面的なものではなく、もっと精神的な世界での魂の輝きに対して評価されるのではないかと思いますが、そういう視点で考えると、今の自分は・・・全然ダメですね。
天国から見ている父や母の満足のいく状態に持って行くには、かなり根本的な心の持ち方を変える必要がありそうです。