まいどーおおきに 河内の樹々の独り言

表のシャッターは下りている。
約束の裏木戸から「こんばんは」と声をかけるが返事が無い。
中に入って見るとカウンターもすべてかたずけてある。

奥の方から

「どうぞお入りください」と声が掛かった。

男が先にあとから御隠居、ミッちゃんと続く。暗い中をぐるりと回る様に裏側に回った。

部屋には女将が正座をしていた。

「ようこそいらっしゃいました。特別の御膳を用意して御座います。お二人ともはじめてでいらっしゃいますので、裏居酒屋をご紹介させていただきます。
この前の六畳の間には一人の女性が寝ています。何も身に付けてはおりません、ぐっすりと眠っておりまして多分朝まで眠っていると思います。
決して何もなさらないで下さいませ。ご酒は充分に用意しておりますので遠慮なくお召し上がりくださいませ。お帰りは入り口に鈴を置いてありますのでチンと鳴らしてそのままお引き上げ下さいませ。重ねてお願いも押し上げます。女の子には決して話しかけたり悪戯をしないようにお願いいたします。」

長い口上である。

女将は丁寧に礼をして席を立った。

女性はぐっすりと眠り込んでいて起きる様子が無い。御隠居はぐるりとひと回りをしてどっしりと座った。

座敷は丸窓がひとつあるだけの殺風景な部屋である。
窓を開けると裏側には小川が流れている。
部屋の中は桐の火鉢に鉄瓶が掛かっている、寝ている女性の身体が冷えることのない様になっている。

女性を見ると二十代後半であろうか、化粧気の無いきれいな細身の女性であり、たわわに実った乳房が見事である。

御隠居は興奮したであろうか、下戸にもかかわらず、ちびちびと酒を飲んでいる。

男はこれが秘密クラブだったのかと思った。

30分もいただろうか、御隠居は酔ったらしく鈴を鳴らした。

「どうぞカウンターへ 初めは皆さんそうですの」

せっかくのご馳走が残ってしまった、女将は手際よくお重に詰め始めた。

時間は午前2時半を少し過ぎたころである。

女将が手配をしたタクシーに相乗りしてから、ホッとしたようなドット疲れたような変な感じである。

 

和菓子屋の御隠居は小学校時代からの友達のミッちゃんとは「コウちゃん、ミッちゃん」と今でも呼び合っている中である。

居酒屋に行ってから3ヶ月も経った頃、御隠居がミッちゃんと一緒に私の店に来た。
「あの店に行きたい。先方に話をして、一緒に行って欲しい」というのだった。あまり気乗りしないまま居酒屋に行くと

「まあ久しぶり、御隠居さんはお元気ですか」と聞かれた。

しぶしぶ御隠居が友人を連れてきたい旨を伝えると、有りがたい、近くの飯場が無くなり、急に暇になった、

「明日にでも来てくれ」という。

それは幸いと御隠居に伝えると3日後、連れのミッちゃんと一緒に行く事になった。

和菓子屋の朝は早い。午前四時にはもち米をときだして作業が始まる。

 

御隠居の休みは毎週水曜日なので、その前日火曜日がその日に当たっていたので、日時は全く問題は無いのである。

当日夜8時ごろ和菓子工場を覗くと御隠居は一人残ってあんころ餅を作っている。じっと耳を済ますとちいさな声で

「〇ンコ●ンコ、〇ンコ●ンコ」調子を取りながら餅を丸めている。

よほど嬉しいのだろう。女系家族で養子が続いて、御隠居の代で初めて長男が生まれ、その長男も四十半ば、やっと店を任せられるようになった。

さて、約束の時間にはまだ時間があるので、別の居酒屋に入り飲みすぎない様にチビチビとビールを飲んだ。居酒屋が閉まるころには、奈良の町全体が寝静まってしまう。
静かだ、人達がこの町に住んでいるのかと思うくらいである。

御隠居は酒を飲まない下戸であるのに5万円も払ってでも何を見ようかと考えると、おおよそ察しがつく。
さっきの和菓子工場での口ちずさみ、マスクはしているが、
「〇ンコ●ンコ 〇ンコ●ンコ」とつぶやいたのがはっきりと聞き取れた。今夜はかなり期待をしているようだ。

「〇ンコ●ンコ 〇ンコ●ンコ」

従業員が帰ってしまって誰もいない工場で

「〇ンコ●ンコ、〇ンコ●ンコ」の繰り返しである。

あんころ餅を翌日の予定以上を仕上げてしまった。

約束の時間が来た。和菓子屋の御隠居が尋ねてきたのはそれから30分もしないうちからだった。

馬子にも衣装、御隠居の和服姿は何処に行っても恥ずかしくない位だ。待ち合わせの居酒屋からタクシーで5分もかからない例の居酒屋に出かけた。


 

 

むかしの話を掘り起こしてみた

 

2009年10月24日付けの某紙朝刊の政治面にこの様な記事が載った

 

天皇のお言葉「工夫を」、当時の岡田外相が提起「不適切」批判も・・・・・

 

この記事は国会開会式での天皇陛下の「お言葉」について

 

「陛下の思いが入ったお言葉になるよう工夫できないか」

 

と提起したことが取り上げられている

 

一般の国民とは明らかに違う空間に在位する「象徴天皇」は、災害被災地についての

「お言葉」や、園遊会での「お言葉」を聴いていても、確かに言葉少なめな同じあいさつや、ねぎらいの「お言葉」を話しているような気がする

 

私は昭和天皇の「戦争責任」について、‘ 戦争責任の決着をどうつけるのか ’

【中央公論2003年二月号】をいまだに机の上において、時があれば読むようにしている。

 

私のような凡人が、幾らこの様な本を読んでも心は晴れない。

 

私が生まれる前に起きた、我が国の国民や軍人たちの不幸を思うと何かすっきりとしない。

 

天皇一家は近寄りがたい存在であると思う、したがって乗り越えられない厚い壁をぶち壊して、「象徴」等と呼ばずに一般国民レベルの生活をすれば「言葉」が通じる(?)のではないかな?