見物四十八手 その四十九 レプティリアン見物
陰謀論者のあいだで根強いのは、依然としてレプティリアンという爬虫人類がこの世を牛耳っているおり、奴らの家畜として人類は生きていかざるを得なくなってしまったという視点である。物理的に人を食している(もっとも一部はそうしているだろうけれども)のではなく、人が生みだすバイブレーションを食しているのが、なんとも日本語の翻訳が情けないとかげ男たちとなる。おもしろいのが、太田龍やデーヴィッド・アイクあたりの賢者が、綺麗な論調で主張しておいて、最後にフリーメーソン経由でこのレプティリアンをもってくる点であろう。誰しもが、最後にとかげかよとなる。無論、彼らも相当莫迦にされたてきたから、正直、レプティリアン抜きで話をすすめたいのだけれども、いかんせん世のなかが完全に支配されるまでに秒読みで、遠まわりしている暇はないといったところだろうか。
眼と耳と脳を支配された日本人よ、眼醒めよ!
と啓発をしてくれているのだ。この話を聴くといつもおもいだすのが、荘子で、これもどこかで述べたことではあるが、混沌と題された寓話がある。少し解釈を加えるけれども、左脳の神と右脳の神がちょうど真ん中を通る脳梁で、散々、混沌に酒池肉林もてなされたものだから、お礼に人間のように眼・耳・鼻・口の七穴をあけてあげたところ、混沌はみるみる衰弱し、七日後に亡くなったという物語になる。
要は、五感に頼っているようじゃ、とかげにひと呑みされて終わりということなのだ。五感を磨くというのは、養豚場の豚が一所懸命、自分が美味しくなるように様々なことにチャレンジしている姿と変わらない。だから、第三の眼をひらこうという趣旨の話が今度は流行るのだけれども、実際はあれもスピリチュアル的な響きを醸しだしているだけで、海底に棲む生物が天から降り注ぐ光を感じたいがために、松果体経由で額に穴をあけたのがはじまりと云われている。つまりは、これも穴なのだ(笑)。穴なのだから、別に第三の鼻と表現してもなんら問題はない。事実、
人間が第三の眼を開眼したときの身体感覚は、霊視というより呼吸に近い
とおもう。私のまわりでは、この呼吸を工夫して、第三の眼を物理的にひらいた友人が幾人かいるけれども(家族に「額に穴があいているけど、大丈夫?」と心配されたりしている)、ここで重要なのは、七穴にひとつ加えて八穴にしたところで、荘子の混沌が喜ぶか否かということ点になる。五感を六感にすれば、レプティリアンは慌てふためきしっぽを切って、去ってゆくのか。そもそもが第三の眼をひらいた顔相自体、なんとも爬虫類的ではないか。だから、老荘思想や禅は、一切を否定してきたのだ。否否ひひひ、では、どうしたらよろしいか?わかってしまえば、こんな難問、瞬く間に解決できることであるが、それを解いたのもまた混沌とした脳である。
眼と耳と脳を支配された日本人よ、眼醒めよ!
と啓発をしてくれているのだ。この話を聴くといつもおもいだすのが、荘子で、これもどこかで述べたことではあるが、混沌と題された寓話がある。少し解釈を加えるけれども、左脳の神と右脳の神がちょうど真ん中を通る脳梁で、散々、混沌に酒池肉林もてなされたものだから、お礼に人間のように眼・耳・鼻・口の七穴をあけてあげたところ、混沌はみるみる衰弱し、七日後に亡くなったという物語になる。
要は、五感に頼っているようじゃ、とかげにひと呑みされて終わりということなのだ。五感を磨くというのは、養豚場の豚が一所懸命、自分が美味しくなるように様々なことにチャレンジしている姿と変わらない。だから、第三の眼をひらこうという趣旨の話が今度は流行るのだけれども、実際はあれもスピリチュアル的な響きを醸しだしているだけで、海底に棲む生物が天から降り注ぐ光を感じたいがために、松果体経由で額に穴をあけたのがはじまりと云われている。つまりは、これも穴なのだ(笑)。穴なのだから、別に第三の鼻と表現してもなんら問題はない。事実、
人間が第三の眼を開眼したときの身体感覚は、霊視というより呼吸に近い
とおもう。私のまわりでは、この呼吸を工夫して、第三の眼を物理的にひらいた友人が幾人かいるけれども(家族に「額に穴があいているけど、大丈夫?」と心配されたりしている)、ここで重要なのは、七穴にひとつ加えて八穴にしたところで、荘子の混沌が喜ぶか否かということ点になる。五感を六感にすれば、レプティリアンは慌てふためきしっぽを切って、去ってゆくのか。そもそもが第三の眼をひらいた顔相自体、なんとも爬虫類的ではないか。だから、老荘思想や禅は、一切を否定してきたのだ。否否ひひひ、では、どうしたらよろしいか?わかってしまえば、こんな難問、瞬く間に解決できることであるが、それを解いたのもまた混沌とした脳である。
