
朝鮮戦争、6・25(ユギオ)、1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦
リメンバー・朝鮮戦争・・以下は<政権闘争とプッツン対策を学ぶヒント>です。
喧嘩するなら、負けない準備を。忍耐にまさるのが抑止力という教訓。
リメンバー・朝鮮戦争・・以下は<政権闘争とプッツン対策を学ぶヒント>です。
喧嘩するなら、負けない準備を。忍耐にまさるのが抑止力という教訓。
朝鮮戦争八つのなるほど:(Cf.Wikipedia)
●引き金は何であったか?
1948年2月8日、北朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言した後、金日成は、3月には南半部への送電を停止して、南北の対立は決定的となった。
(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)
1948年2月8日、北朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言した後、金日成は、3月には南半部への送電を停止して、南北の対立は決定的となった。
(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)
●戦闘による死傷者はどれほどであったか?
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。アメリカの推定では、北朝鮮軍が約52万人と言われている。中国人民志願軍は約15万2千人が「戦死」したと中華人民共和国側は発表している、毛沢東国家主席の息子の一人毛岸英も戦死した。
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。アメリカの推定では、北朝鮮軍が約52万人と言われている。中国人民志願軍は約15万2千人が「戦死」したと中華人民共和国側は発表している、毛沢東国家主席の息子の一人毛岸英も戦死した。
●女性の特殊慰安隊は事実か?
朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度:韓国の研究者発表(2002/2/23朝日新聞)
韓国・慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん=社会学=
http://web.archive.org/web/20020223225519/http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html
朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度:韓国の研究者発表(2002/2/23朝日新聞)
韓国・慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん=社会学=
http://web.archive.org/web/20020223225519/http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html
韓国軍'特殊慰安隊'は事実上の公娼 創刊2周年記念発掘特集 韓国軍も'慰安婦'運用した(2002/2/26Ohmynews朝鮮語)
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635
●南の戦闘力はなぜそんなに弱体だったか?
韓国軍は、歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千を有していたが、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機はわずか22機。
これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、戦車240両、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していた。
韓国軍は、歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千を有していたが、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機はわずか22機。
これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、戦車240両、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していた。
●北朝鮮による奇襲攻撃はどのように行われたか?
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。
また農繁期にあわせて多くの将兵が郷里への一時帰休をしていた時期であったこと、韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があったことなどで、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃により、各所で韓国軍は総崩れとなった。
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。
また農繁期にあわせて多くの将兵が郷里への一時帰休をしていた時期であったこと、韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があったことなどで、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃により、各所で韓国軍は総崩れとなった。
●どのように悲惨であったか?
準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)。
準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)。
また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠北清州や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして大量虐殺した。
●中国とソ連はアメリカとの戦争に積極的だったのか?
派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍が放棄していった武器、そしてソ連から新たに支給された武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍が放棄していった武器、そしてソ連から新たに支給された武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
●司令官が解任された理由は何か?
マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立する発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任した。
マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立する発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任した。