「ドゴン!」
「ゴガッ!」
「パキパキッ!」
…絶え間なく右へ左へ揺れ続ける車内で、僕は冷や汗を流しながら必死で助手席の取っ手にしがみついていたのでした。
さきほどからずっと、車が道を走っている音とは思えない異音が鳴り響いています。
…赤ちゃんだって車のことを「ブーブー」って言うんだから、車が道を走る時の音は普通「ブーン」だよなぁ、
おかしくなった思考でそんなことを思った瞬間に、左の車輪が窪みを捉えて車体が大きく左に傾きます。
あたりの木々から垂れ下がったツルが鞭のようにしなって車体を叩き、明かりひとつない深淵を照らす頼りない車のヘッドライトの先には、この道無き道を嘘のように爆走していく一台の軽自動車が見えます。
…なぜ、こんな南米あたりで流行ってそうなアクティビティに僕が参加しているのかと言えば…。
そもそものキッカケは、実は3年前まで遡るのでした。
ブログを通して知り合った「某や」さんというトッパーさん。
その某やさんと釣行した僕は、それまで知ることのなかったトップの本流というものを初めて垣間見ることができて、決して小さくはない感慨を受けたのでしたが、
納竿し、フローターを片付け終わった後もなんとなく名残惜しくダベっていたときに、
「次は俺が案内しますよ、野池とか」
なんて、ありがたいお話をいただいていたのでした。
そのことはもちろん僕も覚えていましたが、普段お忙しいと聞いている某やさん。
いつにしましょうか、なんて具体的な話はしないまま、気がつけば3年も月日が経っていたのでした。
それが今年に入って久しぶりに連絡を取り合うようになり、具体的な約束を済ませたのがつい一月ほど前のことで、
僕はトッパー御用達というその野池を、非常に興味津々、楽しみに待っていたというわけだったのでした。
―では、ご一緒するのは9月4日ということで、楽しみにしていますね。
「…でも、ビジ夫さんの車だとちょっと厳しいかも」
…ん?どゆことですか?
「道の駅でビジ夫さんの車は置いていっちゃった方がいいかも」
…?
…約束の今日、早朝3時半。
房総のとある24時間スーパーで待ち合わせたのは、前回ご一緒させていただいた某やさんとスイメンさん、そして某やさんの奥さんのヒロさん。
某やさんの奥さんもマイフローターを所持しているほどのバサーということは以前から聞いていましたが、そう言えば自分の嫁さん以外の女性と釣りをするのは初めてかもしれない。
ひとまずご挨拶します。
―おはようございます、はじめまして、ビジ夫です。以前はブログのコメントで色々と…、
ヒロ「わか~い」
…へ?
―…いや、若くないっす…。37だし…。
ヒロ「…」
某や「…ビジ夫さん、ヒロより年上だよ…」
ヒロ「…あれ、スイメンさんはいくつだっけ~」
スイメン「俺?46だけど」
ヒロ「へ~、逆だったら大変だったねぇ~」
スイメン「は?」
ヒロ「64だったら大変だったねぇ~」
―…。
某や「…。」
スイメン「いや、ちょっと何言ってるかわからないけど…」
…ははぁ、なるほど、
なるほどね、ハイハイ。
たぶん、この奥さんは…、ちょっと、こういう言い方が適切かはわからないけれど、
いわゆる天然さんなんだ、たぶん。
そう言えば、今日の予報はそれなりに雨が降る、っていうことが分かった時に、
―当日雨っぽいですけど、奥さん、ほんとに大丈夫ですか?
って、事前に某やさんに聞いてみた時の回答がこれだった。
某や「嫁は雨だろうがなんだろうがやるよ」
…そうだった。
なにしろミュージシャンの奥さんをやってるくらいなんだから、僕のような平凡なサラリーマンでは測れない感性の持ち主なんだろう、きっと。
…しかし、前回ご一緒させていただいた時も感じたことだけど、某やさん周りの方はキャラが濃ゆい。実に。
某や「んじゃ、ひとまず道の駅行って、多分ビジ夫さんの車だと辿りつけないから、ビジ夫さんはスイメンさんの車に移動かな」
―はい、すいません、宜しくお願いします…、っていうか、そんなに道ひどいんですか?
スイメン「いや、大丈夫大丈夫。こないだも様子見に行ってきたし。全然大丈夫よ」
―そうですか、そんなにひどい道を走るのかと思って、ちょっと心配してたんで。よかったです。
じゃあ、申し訳ないですけど、現地まで宜しくお願いします…
…そして、現在に至るというわけだったのでした。
「ドゴン!」
「ゴガッ!」
「パキパキッ!」
―あわわわ、ちょっとスイメンさん…、
スイメン「あれ?今日は某やさん飛ばさないなー、気を使ってんのかな?」
―え、どどど、どういう…、
スイメン「あの人、いっつも頭おかしいくらい飛ばすからなー」
スイメンさんの車の前輪がちょっとした岩の段差に乗り上げると、衝撃で僕は頭をルーフにぶつけそうになります。
スイメン「この先はちょっと揺れるかもしれないから、気をつけてね」
―え、今までのがピークじゃないの!?
しかも「ちょっと」ってどういうことなんだ、「ちょっと」って。
今までの状態が既に「ちょっと」じゃない。
日本語は正確に…、わわっ!!
「ドガッ!」
「ゴリッ!」
「バキバキッ!」
…ギャアアアアアアアアアアアアアアア…
と、僕の心のなかの叫びは誰に届くこともなく、ひたすら房総の山奥の闇に飲まれていったのでした。
…車が駐車ポイントに停まったことを確認すると、ヘロヘロになった僕はシートベルトを外してズルズルと車から這いおります。
あたりにあるのは、デコボコの砂利道と、鬱蒼とした木々と、そしてひたすら闇だけです。
…すごいところだな、しかし。
―よくこんなところ見つけましたね、
と、運転席側から降りてくるスイメンさんを振り返りながら、本心から聞いてみます。
スイメン「Google Mapとかでね、見つけたらとりあえず行ってみるのよ」
…はぁ、その執念というか熱意には感服しますよ。
時間は現在、4時過ぎ頃でしょうか。
このところ、日が昇るのもだいぶ遅くなってきて、秋の訪れはもうすぐそこなのでしょう。
スイメンさんからヘッドライトを借りて周囲を探索してみます。
…あ、なるほど、ここから降りてすぐ野池なんだ…。
―そこの降りたところから、すぐエントリーポイントなんですね?
某や「そうだよ、すぐそこから入れるんだよ」
…暗闇でよくわかりませんが、駐車スペースからエントリーポイントはかなり楽に入れるようです。
こういった場所では、これは心強い。
明るくなりさえすれば、準備にはそれほど時間はかからなそうです。
スイメン「日が昇るのは何時くらいなんだっけ」
―たぶん、5時過ぎくらいだと思いますが…
ヒロ「じゃあ、用意して入っちゃおうか~」
―え!?
スイメン「いやいや、まだ真っ暗じゃん」
ヒロ「さっきよりちょっと明るくなってきた気がするよ~」
―いやいやいや。いやいやいやいや。
スイメン「変わらねって」
某や「こうなったらヒロは一人でも入るよ」
―えぇ…。
スイメン「アンタの嫁、イカれてるよ…」
以前にご一緒した時にはかなりアナーキーなイメージが強かったスイメンさんが常識人のようなことを言っています。
そうか、スイメンさんもヒロさんがいるときにはツッコミに回らざるをえないんだな…。
―フムフム。
妙に納得した僕は、いちおう、危険がないかエントリーポイント周辺に降りてみることにします。
ライトを頼りに少しずつ岸を降りていってみると、何やら地面をのたうつ紐のようなものがあります。
…いや、紐というかこれは…。
…ヘビか。
しかも、この暗闇の中でもハッキリと浮かび上がる背中の立派な銭形模様。
間違いありません。
アレです。
「マムシ」に間違いありません。
…。
いや、うん。
なるほどなるほど。
いるんでしょう。いてもおかしくはないんでしょう。
僕が普段暮らしている生活圏ではまず見かけることはない、ミニリュウよりレアなマムシですが、何しろここは房総の山深い溜池の近くなのです。
マムシの一つや二つは出るのでしょう。出てもおかしいことはまったくないのでしょう。
マムシは相変わらずエントリーポイント付近をヌルヌルと動き回っていますが、刺激しないようにソロソロと引き返した僕は3人に報告します。
―えーと…、エントリーポイントのとこマムシいますけど…。
ヒロ「え~、マムシ~?」
某や「ああ、いるって言うよね」
…。
…え、終わりかい!?
この場合の正しい反応というものは、
「本当に!?」
あるいは、
「他のヘビを見間違えたんじゃないの!?」
…というのが正解なのではないですか?
100人に聞いたら、100人全員がこのどちらかの反応に分かれるのではないのですか?
…特に動じる風もなく黙々と準備を進める3人の前で僕は立ちすくみます。
おかしい、この展開は何かが間違っている。
本来なら、
―そこに、マムシが、
と僕が発言した瞬間に、「え~!」という反応とともに3人からは矢継ぎ早に「どこだどこだ!」とか「こわ~い」とか、「落ち着け!」とか、
そんなリアクションがひとしきり返ってきたところで僕は冷静に、
―マムシはこちらからちょっかいかけなければ大丈夫です。いいですか、マムシの見分け方というのは…、
…と淡々と説明して全員を落ち着かせる。
と、ここまで僕の脳内ではシミュレーションが済んでいたのです。
我ながら完璧な未来予想図が描けていたのです。
…それがこの有様はどうしたことでしょう。
この現実とのギャップは何事だというのでしょう。
なぜ僕一人が空気読めてない奴みたいな感じになってしまっているのでしょう。
…一応、ポツネンと一人でもう一度エントリーポイントに戻ってみます。
先ほどと同じように傾斜をヌルヌルと移動していたマムシは、僕の気配に気がついたのか、水の上を器用に泳いで沖の方へ去っていってしまいました。
…。
なんだか非常に釈然としませんが、良しとしましょう。
僕の心のなかにわだかまったモヤモヤは一向に晴れていませんが、駐車ポイントあたりからヒロさんの「先に入っちゃうよ~」という声が聞こえてきます。
女性一人をこの暗闇の中エントリーさせるわけにはいきません。
―マムシは、去った。
僕は無理やり良しと自分を納得させ、ほったらかしにしていたエントリーの用意を済ませるべく駐車ポイントへ戻ったのでした。
全員がエントリーを済ませた瞬間を見計らっていたかのように、地平線の先から朝日が顔を覗かせました。
水面をうっすらと霧が覆っていますが、何か生命のような反応は見受けられません。
―トッパー御用達の、野池。
今日、この3人と一緒に釣行させてもらうにあたり、僕はどんなルアーを投げようかと、実は色々と考えてきたのでした。
以前にご一緒した時は、持っているルアーの中で適当にトッププラグを投げまくってみた、という感じでしたが、
そんな付け焼き刃で本職のトッパーに敵うわけもなく、アッサリと撃沈していた僕です。
トッパーという方々は文字通りトップに特化した方々なわけで、一方で僕はひたすら平凡な普通のバサーです。
そんな僕が、トッパーの方々に一般バサーの魅力を見せつけられるものといえばなんなのか。
一つには、普段通り、巻物をやったりワームをやったりというのもあるでしょう。
しかし、それではあまりに芸がなさすぎるというものではないか。
…こうして釣行の直前まで悩んでいた僕だったのでしたが、やがて、ある天啓を得ます。
―そうだ、サブサーフェイス系のルアーを使ってみようか。
サーフェイスとは水面のことですが、このサブサーフェイスのルアーが一般的なトップウォータールアーと違うのは、攻めるレンジが水面から表層直下をターゲットにしている点でしょうか。
純粋なトッパー達が使うトップウォータープラグに同じようなものがあるかどうかはわかりませんが、これらのルアーだけで勝負してみるというのも面白そうです。
…ガサガサとタックルボックスからルアーを引っ張りだしてみます。
ハイフロートのミノー、サーフェイス系クランク、一応バズベイトもこのジャンルでしょうか。
そして…、
ビッグベイト。
ジョインテッドクロー178のフローティング。
これが今日の目玉ルアーで、欲を言えばこれでどうにか一本釣りたい。
まだ一度も釣り上げたことのないジョイクロですが、今日が記念すべきその日となるというのもなかなかドラマチックな展開と言えるのではないか。
某やさん達のようなピュアなトッパーと、僕のような一般バサーの架け橋とも言えるようなこれらのルアー。
まさに、これらのルアーこそ今日使うのにもっとも相応しい。
…フローターのエプロンに一通りルアーを並べて、そのようなことを考えながら、ひとしきり僕は悦に入っています。
まだ釣りを始めてすらいないというのに、この思いつきが我ながら妙にツボに入った僕は、何やら今日の目的は既に達成したかのような錯覚にとらわれています。
一人、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、7フィート1インチのXHロッドの先にジョイクロをセットして岸際に投げます。
バシャーン!と派手な着水音のあと、ヌラヌラと泳いでくるジョイクロ。
チェイスは…、ない。
…あれ、こんな誰も来そうにない秘境中の秘境で、しかも自分以外は皆トッパーばかり。
そうそうバスがスレているようには思えないけど…。
―このところの台風の影響か。
先週行ったフローターダムのように、バスは既に秋モードに移行して今は表層を意識していないのかもしれない。
そう言えば、今日も午前中は派手に降るかもという予報だった。
今のところ、ちょっと蒸し暑いくらいで降り出しそうな気配は無いけれど…、
―あ、スイメンさん。
…このスイメンさん、何やらご自分のブログではスイメンから「タモさん」と改名をされたようですが、ここでは一貫してスイメンさんと呼んでしまいましょう。
―スイメンさん、どうですか?
スイメン「反応ないね、さっき誰かバラしたっぽいけど」
―え、マジすか。ご夫婦のどっちかってことすか。
…エントリーしてすぐ、四方に散った僕らは今誰がどこで何を試しているのかがよくわかっていない。
…なんだろう、何を使って喰ったんだろう。
ジョイクロだと、やっぱりさすがに厳しいのかな…。
…釣ったことのないルアーを使い続けることの、最大の壁がここにあります。
釣るその瞬間まで、そのルアーのことを完全には信じきることができない。
いっそ、ジョイクロ以外の全てのルアーを家に置いてきてでもしていれば、腹を決めて使い続けることもできたでしょうが、
残念なことに目の前のエプロンにはミノーやクランクなど、実績のあるルアー達が眩しく転がっています。
―ま、今日はサブサーフェイス縛りだし。別にジョイクロ縛りってわけでもないし…。
…この意志の弱さ。
これがあるから、僕は本当に釣りたいルアーがあるときには他のルアーを持っていかずに退路を完全に絶たなければならないのです。
…じゃあ、ひとまず、ミノーから…、
スイメン「あ、雨降ってきた」
―え?
…ポッ、ポッ
―ありゃ、降るって言ってましたけど、ほんとに降ってきちゃいましたね。
…念のためレインウェアを着込んでいた僕はフードをかぶりなおします。
裾から雨が入らないようにジッパーをきちんととめて…、
ポポッポッ…、
…ザァァァァァァァァァァァァァァァアァァァァァァアァァ
―うお、ちょ、
ドザァァァァァァアァァァァァァアァァァァァァァァァ!!!!
―…ヒィー!
…突然の土砂降りにうろたえる僕。
レインウェアにウェーダーを着込んでいますから身体はどうということもないですが、
防水加工が施されていないフローターカバンの中には途中のスーパーで買ってきた昼食のオニギリが入っている!
…いかん、このままでは僕のお昼御飯が無くなってしまう。
スイメンさんの方を見やると、オーバーハングの下に避難して雨ガッパを着込んでいる様子。
…ちと、僕も雨が弱まるまで避難していようかな。
木々のトンネルを見つけ、その下に潜り込みます。
しかし、ここ最近の週末は雨が当たり前のようになってきていて、これでは梅雨の時期のほうがよほど晴れが多かったような気がします。
…まいったなぁ、せっかくの朝マズメの時間帯なのに、これじゃ雨宿りしている間に終わってしまうぞ。
フローターカバンを開いてオニギリの無事を確認すると、雨が入り込まないようにスーパーの袋を2重に縛って防水対策を施します。
これでよし、ということで、やれやれ、この木の下から投げられるところでも投げてみようか、と周りを見回してみると、
何やら沖のど真ん中、土砂降りの雨の中でヒロさんがこちらに向けて何か叫んでいます。
ヒロ「…○△%$¥!!」
…雨を防げるものが何もない沖でずぶぬれになりながら何を言ってるんでしょう。
雨音のせいで何を言っているのか全く聞き取れません。
―…どうしたんですかー!!
ヒロ「…□@#¥$○×+$%!!!」
…ん?
ヒロさんがこちらに向けて何かを掲げています。
あれは…、
―え、バス!?
しかもデカい!
この距離からでもはっきりわかるくらい明らかにデカい!
…ウソ、この土砂降りの中で釣ったのか!
ちょ、写真…、
―ヒロさん、ちょっとそれ写真…!
ヒロ「…%$¥アアアアー!!」
!!
…あああ!バス落っことしちゃった!!
ちょっと!今のデカかったでしょ、かなり!
…向こうが何を言っているかわからないということは、こちらが何を言っているかもわからないのでしょう。
逃げられる前にサイズはちゃんと測ったんですか、写真はちゃんと撮ったんですか、
言いたいことは山ほどありましたが、断念して雨宿りを続けることにします。
…しかし、さっきの、50あったんじゃなかろうか。
…雨が若干弱まったところを見計らって木の下から出てきた僕は、さっきやり途中だったミノーを試してみることにします。
ジャークの間隔を変えつつ、水面ぎりぎりを狙ったり潜らせたりと試してみますが、チェイスすらありません。
―魚影は少ないけど出ればデカい、みたいなフィールドなのかな…。
たしかに、それはそれでトッパーという人種が好みそうなフィールドではあります。
どうしようか、クランクも試してみようか…、
…おや、某やさんじゃないですか。
いつの間にか近くで釣りをしていた某やさんのところへ寄っていきます。
―どうですかー?
某や「さっきあっちで釣ったよ!」
―え、マジですか、いつの間に!
某や「雨が降ってすぐだったよ。魚がいそうなカバーの近くをしつこくやったら出たね」
言いながら、写真を見せてくる某やさん。
…こ、これは。
太い。
某や「ギュンギュン引いたよ、長さはそれほどでもなかったけど今までで一番太いバスだったかも」
―たしかに、2㎏くらいありそうな体してますね…。
某や「ダイレクトリールだから引っ張り出されちゃってさー」
…ぐぬぬ。
しまった。
ヒロさんにしても某やさんにしても、あの土砂降りの一瞬で釣ったんだ。
あれがチャンスだったんだ、オニギリなんか気にして避難してる場合じゃなかった…。
…その後は反応らしい反応もないまま、池は完全に沈黙してしまいました。
厳重に結びすぎたスーパーの袋を四苦八苦してほどき、無事に救出したオニギリを頬張りながら考えます。
―これはもう、完全に魚が上を見てないぞ。
ワンチャンをモノにしたあの夫婦はともかくとして、ここで釣りたいなら多分サーフェイスはだめだ。
水深がどの程度かはわからないけれど、もう少し下、2~3m下げて攻めてみればひょっとしたら何かしら反応が…。
…あ、夫婦が仲良く寄り添ってる。
ちょっと僕も近くに寄って状況を聞いてみようか…。
ヒロ「誘いがダメなんだよ~、誘いが」
某や「ほー、例えば、どのように?」
ヒロ「こうやってね~、奥に入れるでしょ?」
某や「いや、枝に引っかかってるけど」
ヒロ「これも誘いだから~。ここからね、こうやってゆすってね~」
某や「いや、取れないでしょそれ」
ヒロ「と思うでしょ~?でね、ここから取りに行くでしょ~?」
某や「取りに行くところまでが誘いなんだ」
ヒロ「そう!ここから取りに行くところまでが誘いだから~」
…なんだか、仲の良い友達みたいだな。
同じ趣味を、お互いが同じように楽しめる夫婦というのは、それはかなり幸せなことでしょう。
そりゃあ、一緒に暮らしていれば、気に喰わないことも喧嘩することもたまにはあるでしょうが、
こうした思い出が、夫婦の絆を少しずつ強くしていっているのでしょう。
…そういや、最近は嫁さんと釣りに行ってないな…。
某や「あ、ビジ夫さん、どうですか」
―いや、もう全然ですね。
某や「この近くに秘境って呼んでる野池があるんですけど、そこ行ってみませんか」
―秘境?
某や「サイズはちっちゃいんですけど、いくらでも釣れる癒し系の秘境です」
…正直なところ、このままここで同じことを続けていても、果たして魚が釣れるのかという不安があったところだから場所移動の提案はまさに渡りに船、
某やさんやヒロさんのビッグフィッシュを目の当たりにしていた分、ここの魚にちょっぴり未練が無いわけでもないけれど、ここは素直に乗っかっておくのが正解な気がする。
―わかりました、ぜひそこに行きましょう。
某や「…ただ、そこ、ここ以上に道がハンパないんだけどね」
…え?
某や「登るのはなんとかなると思うけど、さっき雨降ったし下るのが大丈夫かわからない」
…え、それどういう…
某や「まさに秘境だから」
…。
多分、これはマジでヤバイ。
デンジャラスなスメルを感じ取った僕は「やっぱりここで納竿でもいいですよ」という声が喉まで出かかっていたのですが、
「あそこだったらビジ夫さんでも満足するまで釣れるでしょ」
とか、
「ビッグベイトでも多分釣れるよね、同じくらいのサイズが」
とか、
某やさんとスイメンさんでワイワイと、何やら僕にかなり気を使って考えていただいている様子なのが見て取れて、
僕はそのセリフをグッと飲み込みます。
…こうなったら毒を食らわば皿までか。
腹を据えた僕は、今日は行くところまで行ってやると、半分ヤケクソのような気持ちでエントリーポイントまで引き返したのでした。
…フローターをバッグにしまって車に詰め込み、さて、では秘境とやらに案内していただこうではないかと、鼻息も荒く助手席に乗り込もうとした僕だったのですが、
ふとスイメンさんの車が気になってあらためて横から眺めてみます。
暗いところではあまり気が付かなかったのですが…。

…なるほど。
でっかいタイヤを履いて、車高を上げて、これが房総フローター乗りの車だ、これが秘境仕様だ、ということなんでしょう。
駆動方式はもちろん4WDで、これならタイヤの一つや二つ脱輪したところで何の問題もないのでしょう。
…なるほどなるほど。
感心しながら、次に某やさんの車を眺めてみます。
…。
完全にどノーマルの軽です。
これであの山道を爆走していたのですから信じられません。
スイメンさんの車ですらあの衝撃だったのですから、某やさんの車ではその比ではなかったはずなのに車を降りた某やさんもヒロさんも平然としていた。
まるで「ちょっとそこのコンビニまで来てみました」とでも言わんばかりにケロッとしていたわけです。
…なるほど、これは、どうやらクレイジーなのは奥さんだけではなさそうだな…。
妙に納得して、再びスイメンさんの助手席に乗り込んだ僕だったのでした。
さぁ、では煮るなり焼くなり好きにしてくださいということで、再び助手席の取っ手にしがみつきながらガッタンゴットンと山道を下っていたわけだったのでしたが、急に、おっ、という表情をしたスイメンさんが、
スイメン「あ、あそこサルがいるよ」
…え?
―あ、ほんとだ!可愛いサル…、
サル?
スイメン「あっ、違う?」
―ウリボウだ!ウリボウですよあれスイメンさん!
見ると、体長は30cmほどでしょうか、ウリボウが3匹チョコマカと車の前方を走っています。
―やばいやばい、轢いちゃいますよ、スイメンさん!
スイメン「親が近くにいると思うんだけどね、見えないね」
…野生のウリボウなんてものを目撃するとは思ってもいなかった僕はちょっぴり興奮しています。
いくら山奥とはいえ、あんな産まれて間もなさそうな自然のウリボウに出くわすなんて、野良カビゴンに遭遇するよりよほど奇跡的なことでしょう。
時節柄、ポケモンネタでお送りしております。
…そう言えば亀山ダムで釣りをしている最中に、山ではイノシシ狩りをやってるから注意せよ、なんて放送を聞いたことがある気がしますが、
ぜひ、この3匹には人里に降りないように、山奥で静かに暮らしていてほしいと、そんなことを考えた僕だったのでした。
後編に続く