正月に原作小説A pale view of Hillsを英語で読み、
ずっと心待ちにしていた『遠い山なみの光』を
ついに見ることができた。
映像が美しく、キャストの演技もすばらしく、
名作の名に値する作品であることは間違いない。
ただ、最後の方で示された解釈に不意をつかれショックだった。
原作をちゃんと読めていなかったのか、
あるいは映画独自の脚色なのだろうか。
確かめてみようと考えた。
とりあえず、パンフレットだけでなく、
シナリオブックも購入した。
『映画 遠い山なみの光 シナリオブック』(早川書房)には
それぞれのシーンに番号がふってあって最後は106である。
さらに、原作の翻訳(小野寺健訳『遠い山なみの光』早川文庫 2017年12刷)を通読した。
確かに原作と映画は別物ではあろうけれど、
パンフレットによれば、原作者のカズオ・イシグロは
エグゼクティヴ・プロデューサーとして映画制作に関わってきた。
カズオ・イシグロは石川監督のプロットをすばらしいものだと認め、
原作者ではなく"スクリプトドクター”として、
シナリオミーティングでは様々な意見を出した。
だから映画と小説は無関係とは言い切れない。
特に、小説も映画も謎をはらんだ描き方がされている以上、
映画版は小説の或る有力な解釈として
無視できないものとなったともいえるだろう。
ざっと内容を振り返ると。
1982年イギリス。
夫に先立たれた悦子のもとへ
イギリス人の夫との間に生まれたニキがやって来る。
作家を目指しているニキは作品にするため
母悦子の過去を聞き出そうとする。
悦子には日本人の夫との間に生まれた景子がいたが、
景子は自死してしまった。
悦子は30年前長崎で知り合った佐知子と
その幼い娘万里子にまつわる出来事を語る。
その夏会社員緒方二郎と団地で暮らす悦子は、身ごもっていた。
佐知子はお金がなくても精神的な強さがあり、
フランクと一緒にアメリカへ行くのだと語る。
万里子はフランクを嫌い、アメリカには行かない、という。
万里子は猫を可愛がっていた。
万里子の最大の関心事は猫を飼い続けることができるかだけだった。
或る日、悦子と佐知子は万里子を連れて稲佐山に登る(シーン57)。
悦子は万里子に双眼鏡を買ってやる。
佐知子はアメリカ人の女性と英語で流暢に話す。
佐知子は悦子に子供の頃からアメリカへ行くことを夢みていた、と語る。
父が買ってきた英語の『クリスマスキャロル』を
読んだり勉強をしていたが、夫から勉強を禁じられたのだ。
ミステリーなら謎解きのパートについて確認したい。
とはいっても名探偵がすべてを明確に説明してくれるわけではなく、
かえって謎は深まるようなのだが。
(映画を見て騙される楽しみを奪われたくない人は
映画を見てから読んでください。)
ニキが、母の語る万里子は実は景子だったのだ、
と悟り始めるのはシーン89で、
段ボール箱の中から、悦子が万里子に買ってやった双眼鏡や、
英語版の"A Christmas Carol"を見つけたあたりからである。
同時に、観客にも真相を明かし始めたことになる。
シーン92桟橋では、「イギリスなんか行きたくない」という万里子に、
悦子は「大丈夫。私たち、きっとうまくいくけん」と答える。
万里子は景子であり、イギリスへ行こうとする悦子に
景子が反発している、と理解できる。
シーン95では悦子が赤ん坊を抱き、
その左右にイギリス人の夫と景子が並んでいる写真が出てくる。
その裏には1958年11月20日ニキ誕生、と書かれている。
写真のショットの後、ニキが真相を悟ったことを
悦子が知る場面になる。
シーン9、
うどん屋で働いていた万里子が丼を落として
客から怒鳴られる。
佐知子は「放射能のうつったらどがんすっと」と
言った客目がけてコップの水をかける。
96では花柄の服を着た悦子がコップの水を客にかける。
佐知子の行った行為を悦子が繰り返している。
というより、佐知子が悦子になっている。
97稲佐山でアメリカ人観光客と英語で流暢に話す悦子。
これも悦子が佐知子に取って代わったシーン。
98は市電の中で悦子と万里子が楽しく
語り合うシーンと思って見ていたが、
シナリオブックでは景子(万里子)となっている。
映像では間違いなく、
佐知子=悦子、万里子=景子という描き方をしている。
悦子と景子は確かに実在していたので、
佐知子と万里子は悦子が生みだした架空の存在という見方ができる。
または佐知子と万里子に悦子が自分と景子を投影した、
という見方もできる。
佐知子のように生きたい、というところから、
佐知子の行為を悦子が演じてみた映像と捉えるわけである。
佐知子はこれまで信頼を裏切ってきたフランクと渡米する
という危うい生き方をしているが、
未知の世界で自分の人生を切り拓こうとしているともいえる。
安定していても家庭に縛られていた悦子が
ある種憧れを感じる生き方でもあったろう。
万里子は母親のそういう生き方に従属せざるを得ない。
イギリス人の夫と渡英した悦子についてきた景子と
パラレルな存在だと見なすことができる。
シーン95では、悦子がニキに景子がイギリスに来ても
幸せになれないことは分かっていたが、
自分がそういう決断をしたのだ、と語る。
景子の死について親として責任を示唆する発言である。
(続く)




