地下鉄で今出川まで移動。
16時。寒梅館で
『熊座の淡き星影』Vaghe stelle dell'orsa…を見る。
今日の寒梅館は無料の日である。
その昔スタンダールの『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』の授業中、
冨永明夫先生から、
『熊座の淡き星影』を見たかと問われて
誰も答えられなかった。
先生から君たちはああいう映画に興味はないのかね、
とあきれられたという記憶がある。
しかもスタンダールが晩年領事をしていた、
チヴィタヴェッキアで撮影されたというので、
是非見なければとずっと思ってきた映画だった。
ところが、映画はヴォルテッラが舞台だった。
ヴォルテッラはスタンダールが
愛するマチルドを追いかけていった街だった。
妙な変装がすぐにばれて
マチルドから激しく非難されてしまう、
というオチがついた恋愛惨敗の街である。
それをいつの間にか記憶が塗り替えていたらしい。
室内のシーンが多く、街の様子はそれほどよく分からなかった。
映画は今度もモノクロ。
字幕が白い背景に溶ける。
白の祟りだ!
半分くらいしか字幕が読めず、よくストーリーが分からない。
家に帰って、ウィキペディアを読んでみてやっと分かった。
(以下ネタバレ)
サンドラ(クラウディア・カルディナーレ)は
夫と故郷のヴォルテッラに戻る。
ナチスの強制収容所で殺された
ユダヤ人科学者の父を記念する像の除幕式のためだった。
サンドラの弟ジャンニは自伝的な小説『熊座の淡き星影』を書いている。
弟は近親相姦関係にあったサンドラは
原稿を破棄するよう求める。
精神を病む母の再婚相手ジラルディーニと
姉弟は以前から憎み合っていた。
母とジラルディーニの密告で
父がアウシュビッツ送りになったと信じているからだった…
ギリシア悲劇『エレクトラ』を下敷きにしている。
『エレクトラ』は父アガメムノンを殺害した
母クリュタイムネーストラーと母の愛人アイギストスに
復讐しようとする、エレクトラと弟オレステスの物語である。
近親相姦の話ではないが、
密告によって間接的に父を殺した
母とジラルディーニへの憎悪
という構図は相似形だといえる。
映画の印象を一言でいうと、
クラウディア・カルディナーレの目力強すぎ、だ。
上流階級のファッションに身を包んでいても、
ギリシア悲劇の野蛮なほどの情念を迸らせる
あのまなざしには血のにおいがした。
『熊座の淡き星影』というタイトルが詩的なので、
なんとなく昔の純愛ものを想像していた。
実際、タイトルはレオパルディの『追憶』
という詩の一節からとられていた。
レオパルディという19世紀の詩人の名前は
やはりスタンダールを通して知ったのだが、
革命家で詩を書いている人だと思いこんでいた。
それだけのぼんやりした知識で、
『レオパルディ』という映画を
2015年のイタリア映画祭で見た。
バールで、「あんたのことが出てるよ」と
新聞を示されたレオパルディが、
ああ、それは別人ですよ、
とうんざりした様子で答える、というシーンがあった。
なにしろ革命家と同じ名前なので
当時から勘違いされていたようだ。
秀作だったが、日本では一般公開されなかった。
見られるときに映画は見ておかねば、と思う。
5時40分に映画が終わり、
やよい軒でサラダと親子丼の夕食を済まして
もどるとちょうど『われら女性』(1953年 イタリア)の
入場が始まったばかりだった。
こちらは5話からなるオムニバス映画で
監督もキャストもそれぞれちがう。
またまた白黒映画だったのだが、
こちらは少し小ぶりの字幕の文字に輪郭線が入ってよく読める。
第1話では映画のオーディションに集まった
女性たちが描かれる。
監督グアリーニ、
主演エンマ・ダニエーリとアンナ・アメンドラ
という知らない女優さんたち。
第2話ではヴァリが演じている女優は
自分が使っているマッサージ師の婚約披露パーティーに出席し、
婚約者の鉄道員と踊り、
少し気を引くのだが深入りせず帰って行く。
ボイスオーバーというそうだが、
ヴァリが語る内心の声が画面にかぶさってくる。
第3話のイングリッド・バーグマンが演じるのは
裕福な家庭の主婦だが、
丹精して育てたバラの木が被害を受ける。
隣家で飼っている鶏が犯人だと見当をつけて
隣のマダムに談判しに行く。
画面に向かってときどきバーグマンは語りかける。
どうでもよいようなネタで展開するコメディだが、
なんともバーグマンがチャーミングだった。
監督はバーグマンのパートナー、ロッセリーニ。
第4話 女優業を優先して子供を産まなかった
イザ・ミランダは車で移動中、怪我をした子供を助け、
治療後家まで送ると、労働者の家庭では幼い子供たちが騒ぎ回っていた…
第5話 アンナ・マニャーニは犬を連れてタクシーに乗り、
出演する予定の劇場へ向かう。
犬のため運転手が割増料金を要求したことに
納得できないアンナ。
警官を巻き込んで大騒ぎになる。
これまた馬鹿馬鹿しいお笑いを監督したのが、
『熊座の淡き星影』のヴィスコンティだとは。
映画の後で、
映画評論家で京都芸術大学芸術学部教授の
北小路隆志氏のレクチャーがあった。
テーマはイタリアのネオレアリズモだった。
『われら女性』(Siamo Donne)のエピソードは
すべて女優が主人公なのにどうして『われら女優』じゃないんでしょう、
と言われたのには同感だった。
昨今、「女優」という言葉も
半ばNGワード化しているのかもしれないが、
ネオレアリズモ、
「女優」が輝いていた時代だったと思う。