小説『O嬢の物語』の周辺で<恋愛の本質について> | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

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わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
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  最 初 にキラキラ

 

 これから御紹介するのは以前、MY☆文学ベストテン(海外の小説)で取り上げたうちの一冊である。

 本来なら<文学。この一冊を読む>のテーマで投稿するのが普通かもしれないが

内容的にやはり<わが心の履歴書>のほうが妥当と思えたのでこちらに入れることにした。

 前回このテーマで投稿した記事青い体験。心をよぎるあの一言では

若き日に世間知らずでポリシー―というものを持たなかった自分が経験した

求職での失敗談について自戒の意味も込めて触れているが

今回は初めての恋愛と失恋と呼べるものを経験した時期に出合った本ということで。

 

 『O嬢の物語』は私にとって特別な小説である。

 

 20代半ばで恋愛に対しても未熟だった自分にとって

バイブルと言える存在であり、それは未だに変わらない。

 どういうことかもう少し具体的に言うならMY☆文学ベストテンの中で少し触れているが

―初めての未来が見えない辛い思い(失恋)から立ち直るヒントを与えてくれた本―ということになる。

 

 つまり失恋から立直るヒントとは

自分を徹底的に反省し見つめ直すという作業に他ならない。

1週間それをひたすら文章にし続けた結果、私の手元に残ったのは

一つの小説と呼ぶべきものだった。

それがなければきっと精神の病へと逃げ込んでいたかもしれない。

  

 以上がバイブルである理由である。

 

 今回はその理由についてさらに深く掘り下げてみようと思う。

 だからタイトルに含んだ<その周辺>という言葉には

私の個人的な事柄や思いとが深く関わり合っていて

これが書評とか感想というものではないことを最初に断っておきたいのだ。

 

 最初にまず作者に関することやこの物語が書かれる背景となった

事情について説明しておかなければならないだろう。

 といっても実はプロローグと言っても差し支えない記事を以前に書いているので

今回初めてこの記事を読まれる方はそちらを御覧頂ければ

これから私が言おうとすることがわかりやすいはずだ。

     下差し

 さて先のリンク先では主にこの小説の序文を書いたジャン・ポーランついて言及したが

ここでこの本の著者ポーリーヌ・レアージュ Pauline Réageについて改めて紹介を。

 ペンネームはドミニク・オーリー Dominique Aury

(本名アンヌ・デクロ Anne Desclos(1907~1998)

 

画像拝借

 

 ポーリーヌ・レア―ジュという覆面作家による『O嬢の物語』 が刊行されたのは1954年、

翌年1955年にドゥ・マゴ賞を受賞し世界で20言語以上に翻訳された。

 ところでどういう内容なのか巷で言われている通りの表現をすれば

ポルノグラフィー、エロティシズム文学、SM文学の傑作という文字が代名詞のように使われるこの小説。

なるほど、そういう面が強調されるのは仕方がないとしても、それはあくまでも表面的なものに過ぎない。

 

これは1973年初版の文庫本(私が所有しているもの)

 

私個人としてはこれは女主人公の悲痛な魂の告白であり叫びであるとともに

普段は人が心の奥底に封じ込め見ないようにしている存在に気付かせてくれる

普遍的で古典的な究極の愛の物語だと解釈している。

 

 

サドの翻訳でも知られる訳者の澁澤龍彦が文庫本のあとがきにこう書いている。

「この本は、サドのそれのような、モラリストの書でもなければ反抗の書でもないが、

あの「クレーヴの奥方」や「ぽるとがる文」の伝統をひく、

純粋と高貴の手本というべき、女の魂の情熱的な告白である」

 

こちらは後に変更になった角川文庫版の表紙

現在はKindoleのみの扱いになっている

 

 この物語が書かれた背景については、彼女とジャン・ポーランとの係わりを抜きには語れない。

 以下、時系列を追って要約してみる。(重要事項にはを付けた)

   下差し

 ●1941年、34歳の時にジャン・ポーランと知り合う。1946年迄はジャーナリストとして活動していたが、後にポーランが編集長を務めるガリマール社に編集者として参加し、この頃からドミニック・オーリーのペンネームを使用する。

 1954年 ポーリーヌ・レア―ジュという匿名の著者による 「О嬢の物語」が刊行される。(序文を書いたポーランはこの時70歳)

 ●1959年 刊行以来<わいせつ容疑>で告発されていたが、4年に渡る法定外論争の末に無罪になる。(このようなものに対して時の権力の謗りは免れない運命にあるのが世の常である)

 ●1968年 ジャン・ポーラン没(83歳)。四半世紀の間、恋人関係にあった彼の死を看取る。(ポーランは既婚者であった)彼の没後も彼の代わりにガリマール社の運営に亡くなる迄携わっていた)

 ●1969年 続編「ロワッシィへの帰還」が出版される。(※尚、オーリー自身はこれは自分が執筆したものではないと語っている)

 ●1975年 この時点ではまだ 「О嬢の物語」の作家が誰であるかは明かされていない。

 ●1994年 出版から40年後の死の4年前(86歳)にザ・ニューヨーカー誌にてドミニック・オーリー本人が作者であると表明。

 

 これらの事実から浮かび上がってくるものは何だろうか?

そもそもなぜ彼女はこのような“問題作”を書いたのか?

 

 

アンジー・ダヴィッド著「ドミニク・オーリー」/2006年

 

 この伝記によれば1994年にニューヨーカー誌に自分が作者であることを表明したとき

 ポーランを失うことを恐れていたオーリーは、彼の気を引くためにこの物語を書いたと告白している。

 

またフランスの日刊紙L'Humanité (1998年5月2日). によれば

“Mort de l'auteur d'"Histoire d'O"の著者の死 ”

という見出しで記事が書かれている。

 

原題/Histoire d'O"(Oの歴史)

 

彼女はポーランにこの小説をラブレターとして書くことにした。

自分は若くもなくきれいでもないので彼の心を引き留めておくには何か他の武器が必要。

理屈や計算ではなく自分に残された方法は、自分の思いを証明してみせることだった。

「きっとこんな本は作れないと思う」と彼は言った。

彼女は「じゃあやってみるよ」と答えた。

(以上、原文和訳を要約した)

 

ポーランは女性は性愛文学を書くことができないと言っていたので

それが「可能である」ことを証明するために彼女は書いたのである。

 

尚、オーリー自身が自分が執筆したものではないと語っている

続編「ロワッシィへの帰還」の序文「恋する娘」の冒頭はそれらを裏付けるようなものになっている。

 

(引用) 恋する娘がある日、彼女の愛している男にいった。

「私だって、あなたの気に入るような物語を書けるわ」

 「そうかい?」と、男は答えた。

―ポーリーヌ・レア―ジュ著―

 

この序文では2人の密かな関係(1人の男と女として)が浮かび上がる。

逢瀬の後の2人だけの至福の時間。

本という存在は2人にとって唯一の自由そのものであり共通の祖国であった。

1人物語を綴るうえでの葛藤もきめ細かに記されている。

だが「書き続けてごらん「」という男の言葉を頼りに

朝にオンボロ自動車で彼に逢いに行き、夜の間に書いた原稿を見せるという形。

逢えない季節も彼女は知っていることを書き続け少しずつ書留郵便で彼に送った。

 

画像拝借

 

伝記の中には彼女にはバイセクシュアルな時期もあったと記されているようだが、

そういう部分が事実であったとしても

1947~1968年の彼の死までポーランは彼女にとって最愛の男であり続けたのだ。

またその後、自身の死の4年前まで作者であることを表明しなかったのはなぜか?

これは私自身が疑問をずっと抱いていたことである。

 

 

先の「恋する娘」の序文の中には

ポーリーヌ・レア―ジュの正体を明かさない約束が出来ていたと書かれている。

(それには様々な事情があるのかもしれないが…)

しかし、この物語がオーリーからポーランへのラブレターであることを思うとき

ごくシンプルな答えが導きだされるのではないか。

 

小説といえ私信であるのだから“公開”しないのだと―。

そして彼女は彼の没後も沈黙を長い間守り続けた。

おそらく2人に関係する周囲の人々が没するまで…

 

もう一つの疑問として残るのは

●を付けた続編「ロワッシィへの帰還」(続О嬢の物語のこと)についてである。

「自分が執筆したのではない」とアンジー・ダヴィッドの伝記で語っているようだが

それならいったい誰がこれを書いたというのだろう?

ポーリーヌ・レア―ジュというペンネームを使って。

それもジャン・ポーラン没後の翌年に刊行された理由は?

もちろん序文の「恋する娘」も含めてということである。

 

普通に考えて自分のペンネームを他人が使うことを許可するものだろうか。

ラブレターの続きを他人が勝手に書くことを許可する人間なんているだろうか?

もしいると仮定するならこの場合答えは一つしかない。

それはオーリーが「序文「」を書き続編「ロワッシィへの帰還」をジャン・ポーランが書いた。

あるいは二人の共作ということもあり得るだろう。

つまり「O嬢の物語」と「続O嬢の物語」の序文は2人が互いのために書き

本編の小説はそれぞれが相手に応えるカタチで書いた。

いや、もっとわかりやすく言ってしまおうか。

つまり、この二つの物語はある意味で互いに宛てたラブレターなのだと。

 

もちろん以上はあくまでも私の想像に過ぎないと断わっておくが。

 

 

赤薔薇

 

そろそろ私にとってこの小説がバイブルである

理由について語らなければならない。

 

20代の真ん中を迎えようと言う時期に最初で最後と信じていた恋を失い

突然の出来事に未来というものが全く見えなくなってしまった自分。

そういう場合に人はどう対処するのだろうか。

時が解決すると言う言葉をよく聞くものの

いつになるのかわからないその時を待ち続ける自信もなかったし

そうかといって自らの存在を消してしまう勇気もなかった。

いっそこのまま精神の病へと逃げ込めればよかったのかもしれないが

心の奥でそうはなりたくないと叫んでいる自分がいた。

相手との恋愛において過剰過ぎる自意識など

とうに葬り去ったつもりのはずなのにまだどこかに息を潜めていたのだ。

 

何も考えられず喉を通らずただ息をしているだけの日々が明け暮れ

泣き明かし疲れ果て涙も枯れ果てた頃に気が付いた。

辛くても生きるしかないのなら気持ちの整理をするしかないのだと。

 

いったい、どうやって?

 

私はまず自分のどこが悪かったのか間違っていたのか相手がもう耐えられなくなったのかを

相手の立場になったつもりで(あくまでも)徹底的に考えて見ることに集中した。

箇条書きに次々と挙げ並べて見ていくうちに理解した。

こんな自分であるならば相手が逃げ出したくなるのも当然かもしれない。

自分は反省し今後は改めていかなければならない。

だが反省するとはいったいどういうことなのだろう。

 

その時、ふっと少し前に読んだばかりの「O嬢の物語」が頭に浮かんだ。

それにしても自分がなぜこの本を手に取ったのか

誰かに勧められたわけでもないのに…

たぶん本屋で表紙の裏に書かれてある解説を読み

何か大切なものがこの中に隠されているような気がしたからなのか?

現在も手元にある本の後ろの発行日を確認したときに

自分の誕生日と同じで驚いたがそれも何かの縁か?

 

自分が犯した間違いにより相手が苦しみ悩んだ挙句の結果だとしたら

自分が罰を与えられるのも(相手が去っていく)当然だ。

 

O嬢が男たちによる服従と涙と拷問のさなかで試練を積みながら

晴れやかな精神状態に達していくイメージは何かの宗教儀式の様を想像させはしないか。

 

同時に不謹慎に思われるかもしれないが私には

全人類の罪を背負い十字架に磔になったキリストの姿が浮かんだ。

 

澁澤龍彦のあとがきにもこう書いてある。

(引用)ロシアの古いキリスト教の異端には

信者が自分の肉体に自分の手で鞭打ちを加えたり

乳房や生殖器を焼き切ったりするという

むごたらしい儀礼を行なう一派があるようだけれども

この肉体否定の強迫観念が『O嬢の物語』の作者にも取りついているかのようである。

(※傍線は私が強調するために付け加えたもの)

 

 

反省するとは結局は自分を戒めることに他ならない。

 

その時の自分が出来る唯一の方法が整理しながら文章に残らず書き留めることだった。

1週間程その作業に没頭しただろうか。

:結果、四百字詰め原稿用紙100枚程のものが物語として私の手元に残った。

 

『殉教者たち』というタイトルの。

(私にとっては初めての長編ともいえる小説である)

 

同時にあれだけ自分の中を吹き荒れた嵐が

不思議にも過ぎ去っていく後ろ姿が見えたように思った。

 

 

  赤薔薇      赤薔薇     赤薔薇 

 

それから何年もの月日が流れ、手書きのままファイルで閉じただけのその小説を

一度だけ私はある一人の男性に見せた(読んでもらった)ことがある。

ドミニック・オーリーがジャン・ポーランに差し出したようにかは秘密だが。

 

 

 

 

よろしくお願いします

下矢印

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