ポンピドーセンターの広場を抜け、元のボーブール通りを進んだ。
交差点のある大通りにぶつかればそこがリヴォリ通りで、
すぐ向こうにパリ市庁舎最寄のオテル・ド・ヴィル駅が見えるはずだ。
そこまで行けば次の行き先はもう近いだろう。
リヴォリ通りの交差点を向こう側に渡り左に折れて少し歩く。
市庁舎の並びにある4区の区役所を通り過ぎたところで手元の地図を確認する。
(以上の道程はよければ最後に示す地図で御確認を)
区役所脇の小路を入り1本裏手のフランソワ・ミロン通りに出るとその建物は一目でわかった。
フランソワ=ミロン通り13、15番地の木造住宅(15世紀)
中世の時代の特徴的な外観を今も残している。
4階または5階建てに屋階付きの2件の長屋。間口が狭く縦に細長い造り。
石の基礎に木の骨組み(梁)、間に白い石膏の壁を埋めたものを外壁に使っている。
他に石や荒壁土などの資材を使ったものも多いようでそれらは防火対策のためのもの。
右側の13番地の家の入口に掛かっているのは看板のようだが、
当時はすべての家には番地の替わりに看板がかけられていた。
ここは今もごく普通に民家として人が暮らしている。
通りの名前のプレートと歴史的建造物であることを表示する案内版
(上の写真の右下部分のアップ)
さてここからが記事の本題に入るところ。
次に向かったのはそこから程近いバール通りにあるもう1つの木造住宅。
ところがこのバール通りに向かう途中で私が見たものは?
まず第1にそれは果たして通りと呼ぶべきものなのか?
パリという街はどんな小さい通りでも必ず名前があり地図でももちろん確認済みとはいえ。
ここで思い出して頂きたいのは今回の旅ブログの最初のほうで、
関係者以外は立ち入り禁止のソルボンヌに
大学教授と思しきムッシューの計らいで案内して貰えたことを
<幸運その1>として取り上げたこと。
これから記そうとする事柄が<幸運>と呼ぶべきなのか微妙な感じもないではないが
やはり私は幸運の1つに数えることにしたいと思うのだ。
(幸運その2―にわかガイド氏登場の巻―)
バール通りはどこにあるのだろう。地図だとこのすぐ近くのはずだが…。
裏通りの小路をキョロキョロしながら歩いていると、狭い脇道に何だか嫌な雰囲気のする一角が目に入った。
一瞬、―ここは通りたくないな―と思ったが、どうやらバール通りへの最短距離であるようだ。
近道という言葉が果たして該当するのかと思うほどの短い距離だから路地と呼ぶべきだろうか。向こう側のバール通りの往来がすぐそこに迫っている。(一応グルニエ・シュル・ロー通りという名前がある)
路地へ足を踏み入れればバール通りと隣接する角の建物の壁伝いに凝視するのを躊躇うような光景があった。
荷物を拡げてくつろぐといえば聞こえはいいが、本格的にビニールシートを敷き靴を脱いで寝転がる男性。
女性はさすがに後ろ向きで座ってはいるものの傍にある大き目の鞄が全てを物語るかのよう…。
おそらくそれが彼女の持つ全ての財産であるのかもしれない。彼らはここで寝泊りしているのかもしれない。
彼らが旅行者でないことは一目瞭然である。
ホームレスの姿は国鉄の駅付近や公園のベンチなどでも時折見かけるがたいてい単独で、こういった人通りの多い街中で、堂々と本格的な生活感剥き出しの姿を間近に見たのは初めてのような気がする。
通り過ぎる人々も慣れっこになっているのか眺めたり表情を変えることもない。
パリでは自分も干渉されたくないから他人に干渉しないのがルール。そこがいいところでもあるのだが、日本ではそうはいかないだろう。
立ち止まってそれとなく眺めてしまうのは、自分のような興味本位の旅行者だけだろうか。
自分が最初感じた嫌な雰囲気という言葉の奥にあるものについても考えてみる必要がありそうだ。
ところで目を転じてその建物全体に向けてみれば、それが探していたもう1つの中世の木造住宅だったのである。
バール通り12番地(又はグルニエ・シュル・ロー通り8番地)の木造住宅(15世紀)
「Auberge de Jeunesse MIJE Maubuisoon」
先程のフランソワ=ミロン通りの住宅と共通点があるが、こちらの特徴は
2階に当たる部分が少し前へ張り出しているところ。
これは場所(面積)を広く取るためのもので
こういった造りはノルマンディー地方の街などで今もおおく見られるようだ。
なるほど張り出しの部分が屋根替わりになり日差しや多少の雨風を凌げるという利点がある。
だからホームレスの人達も…。
外観の写真を撮った後で横の入り口のドアが開いているのに気が付いた。
建物の中を見学出来るのだろうか?と入っていけば受付のようなカウンターに係らしき女性が座っていた。
「ちょっと伺いたいのですが、ここは見学できるんですか?」
女性が首を傾げるような動作をしたので意味が通じないのかと思い、単刀直入に聞いて見ることにした。
「ここはミュージアムスポットですか?チケットは幾らになりますか?」
女性は今度は私の言おうとすることを理解したようで「ノン」とはっきりと言った。
「ここはミュージアムスポットではありません。ここはホテルです」
そうだったのか―なるほどホテルね。
先程のフランソワ・ミロン通りの住宅もそうだったが、こちらもちゃんと実用的なホテルとして現在のパリの街で機能しているのだ。どこかの国ならおそらくここを特別な記念館とした扱いとするところを、今でもごく普通に住宅や施設として使用しているところがパリらしい。
だがそれにしてもこのホテルどうみてもあまり高級な感じがしないのは言い難いけどもホームレスのねぐらとなっているせい?
外へ出てもう一度建物を見上げながらそんなことを考えていると、ふいに誰かが横から話しかけてきた。
「そこはユースホステルだよ。とても安い!」
どこから現れたのか流暢とは言い難い英語を使うその相手は年配のフランス人とおぼしき男性で、<安い>というとこだけはどういうわけか日本語だった。
さてはピンポイントで日本人と見抜かれたのか。
「ヤスイ!」と鸚鵡返しに言ってみる。
「そうそう、ヤスイネ」
こんなんで一気に打ち解けた雰囲気になるから不思議だ。
「ツーリスト?(日本の)どこから?」
「東京です」
これからどこを回る予定かと聞かれたので、できればこの近くの中世の城壁跡へ行ってみるつもりだと答えた。
まあこの辺までは一応旅先でよくあるやりとりではあるけれど…。
「ヴィクトル・ユーゴーの家は行った?」
「レ・ミゼラブルの。名前は知ってるけど…」
「行ってみない?いろいろと案内するよ。僕は今はフリータイムなんだ」
彼は臆することもなく軽々と垣根を越えてこちらのテリトリーに侵入してきた。
(おっと、そう来るわけね…ナンパのお誘いはこの国では決して若者だけの専売特許ではないんだな~)
私の様子を窺いながらさらに畳みかけるように彼は続ける。
「僕は絵の教師をしてるんだけど…でももう××歳なのでリタイアしてるから今はときどきだけね。今日は夕方から授業があるけどそれまでの時間はこうして街歩きを楽しんでいるんだ」
正直随分年齢よりも若くみえるなーというのが率直な感想で、同時に自分の年を隠さずに堂々と言うところに好感を持った。
試しにどこの美術学校なのか訪ねはしたが、モンパルナスにある小さなとこだからとしか答えたがらなかった。
だがこの展開、まさにパリならではだろうか!
彼と同世代の日本人男性ならこういう誘い方は絶対にしないだろう。それ以前にまず気安く声をかけたりするのを躊躇うに違いない。
そしてもし日本で同様の事態に遭遇したとしても、私も誘いには簡単には乗らないに違いないのだが…。
フランス人との会話は私にとっては願ってもないチャンスなのだった。
彼は私の表情の小さな変化も見逃しはせず、私の微笑をOKの印と受け取ったようだった。
「では!」
彼はエスコートするように私の背に軽く手をやり私たちはゆっくりと歩き出した。
「僕の名はアラン(仮名)パリジャンだ。君の名前は」
「××子」
「OK!××子、君も僕を名前で呼んでほしい」
ユーゴーの家(記念館)のあるヴォージュ広場は少し離れているため後に回し、最初は私の希望通り中世のパリの城壁の址である<フィリップ・オーギュストの城壁>を訪ねることに決まった。
以上の私たちの会話は最初は英語が主であった。英語は難しい!とアラン氏はこぼしつつ私のために流暢でない英語で彼なりにコミュニケーションを取ろうとしてくれた。それがかえって私にはわかりやすくもあったのである。それでも少し会話に慣れてくると、アラン氏をフランス語の教師に見立て知っている限りのフランス語で通じるものかと試そうとする自分がいた。
途中でこんな建物の前を通ると、彼は指差しながらまたさっきの言葉を繰り返した。
「ここもとっても安いんだ!」
Auberge de Jeunesse MIJE Fauconnier (11 Rue du Fauconnier, 75004 Paris)
見たところは普通のアパートのようだが、ここも同じような宿泊施設の1つ
この文字が建物の正面に書かれてあるのが系列のユース・ホステルの印
マレ地区には3軒ある
どうやらアラン氏はこの手の<安い>宿泊施設の情報にとても詳しいようである。
実はずっと気になっていたことがあり、それは彼の素性に関する問題で、パリジャンというのは本当だろうかということなのだ。
何故そんなふうに思うのかと言われれば、それは彼の恰好のある部分で、服装のセンスなどというのではもちろんない。
会ったときから彼はずっと小振りのバックを斜め掛けにしていて、私にも注意するように度々声をかけた。もちろんパリはあの手この手でスリが手ぐすね引いて待ち構えているのだからそれ自体は有難いことではある。
でも実際にバックを斜め掛けにするパリジャンなんているだろうか?
そこへ持ってきて果たしてパリジャンが、自身はおそらく泊ることのない宿泊施設の情報にそれほど詳しいものだろうかという疑問も残る。
それならばいったい彼はどこから現れたのだろうか。
フィリップ・オーギュストの城壁(1630年刊行パリ市地図より)
尊厳王フィリップ二世により12世紀から13世紀にかけて造られたパリの城壁
パリの中心から東西南北ともに2キロ足らずで、全長5,4キロある
<城壁について>
城壁とは何か、それは最後の砦
中世のパリの街にとっては他民族の侵入を防ぎ守るための要塞
現在のパリは昔の名残りがわずかに残るのみで
城壁というものは存在しない
その代わりに人々が手にしたのは自由
日本でもかって存在した<城>という名の要塞
それは他民族に向けられたというよりも
同じ日本人同士のためのもの
血の争いは国の中で盛んに行われた
今は観光名所として各地に形骸だけが残されて
いや果たしてそれは本当だろうか
日本は今でも立派な要塞を持っているのでは?
自国ではなく他民族に対しての
四方が海という恐ろしく堅牢な城壁を
城壁址はわかりにくいものまで含めると幾つもあるといわれているが、今回私が訪れたいと思っているのはその中でも代表的な、リセ・シャルルマーニュ校のグラウンドに見られるというものだった。
私が彼へ疑念を抱いているとはアラン氏はおそらく夢にも思っていなかったに違いない。
それに実際のところ彼の素性がどうであろうと、にわかガイドとして何の支障があるというのだろう。
実際に彼は普通は知らないと思うような小道や抜け道を実によく知っていたし、ガイドとしては優秀なほうだったと思う。
青空に恵まれ人通りも少ない静かなマレの小路を歩いていくと、やがて前方にそれらしい建物が見えてきた。
シャルルマーニュ通り沿いから左奥のリセ・シャルルマーニュ校を眺める
建物の角に見えている崩れかけた塔は校舎の一部
城壁の名残りである塔と校舎の外観
こちら
フィリップ・オーギュストの城壁址(enceinte de philippe auguste)
にわかガイドのアラン氏が左端に写り込んでいる
最初に御紹介した中世の木造住宅の前でも見かけた
歴史的建造物の案内版
Sports field of St.Paul gardens
手前のフェンスの階段を下りていけば、城壁の前でスポーツに興じるリセ・シャルルマーニュ中学校の生徒たちの姿があった。
ここは中学校のグラウンドと思われているようだが、実は隣のサン・ポールガーデンのグラウンドなのだ。
もちろん一般的には<リセ・シャルマーニュ校の城壁>の場所で充分通じる。
リセ・シャルルマーニュ校とフィリップ・オーギュストの城壁の位置関係
<中世の面影を訪ねる旅①~⑥>
これまで歩いた道(地図上から下への順 )
次回の更新は新年になってしまいそうですが、
アラン氏の案内で中世の旅はいよいシリーズ最終回を迎えます。
どうぞお楽しみに!
よろしくお願いします