パサージュ巡り⑧パサージュ・ブール・ラベ<運命の女神は微笑まず…> | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

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わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

サン・ドニ通りを挟んで前回御紹介したグラン=セールのほぼ向かいに立つパサージュである。開通したのは1828年。

  

            サン・ドニ通り120番地の入り口

 

残念ながらこのパサージュについて自分の体験を通して語れることはないに等しい。その大きな理由は最後まで読んで頂けるならわかるだろう。もちろん実際にその場所に行き写真も少ないけど撮りはしたのだが、今これらの写真を眺めても湧きあがる思いというものがないということは…。

 そんなパサージュについてわざわざ紹介する必要があるだろうか。

ただ(すべての)パサージュという存在そのものの運命について思いを馳せるとき、特にグラン=セールとの比較においてもやはり語るべき意味があるパサージュだという思いから取り上げることにした。

それらの事情により、今回新たにいろいろ調べた情報の公開を基に、それについて呼び起こされた自分の思いや考えなるものを中心に綴っていきたいと考えている。

 

 以下の地図をまずは御覧頂きたい。

 現在のブール・ラベ付近の地図である。

 

 

 このパサージュは見事不死鳥のように蘇ったグラン=セールとは対照的に、運命の女神からはどうやら見放されたようだ。サン・ドニ通りの右か左かで明暗が分かれたということになる。

 それというのもはっきりした時期はわからないが、途中で新たに開通することとなった2つの通り(セバストポール大通りとテュルビゴ通り)のために、その姿を大幅に犠牲にすることを余儀なくされたからである。

 地図に示されているブール・ラベ通りは、当初はもっと長くサン・ドニ方向まで続いていて、その一部がパサージュ・ブール・ラベであったということになるのだろうか。

 結果として、長さ47メートルという(グラン=セールは117メートル)小規模なパサージュとなってしまった。

 

以下に2つのパサージュと関連する通りとの位置関係を記してみた

青の斜線部分がグラン=セールで赤の斜線がブール・ラベ。

丸い赤の点線部分がブール・ラベ通りがおそらく削られて変化した部分だろう。

 

     削られたパレスト通り3番地の入り口

  

 

 次に注目してほしいのは、ブール・ラベのファサードである。

 アップにした写真の意図は誰の目にも明らかだろうが、柱を支える役目をしているこの2体の女人像<エメ・ミレ作の女神像>をよく見ていただきたい。 

 ●向かって左←が工業や産業を表す(金槌と歯車を持っている)

 ●  〃 右→が商業を表す(錨を持っている)

 そのような意味は知らずとも、パサージュのファサードを飾るという芸術的な面からみてなんとも美しく立派な彫像ではないだろうか。

 この女神柱は先に説明した事情により、旧ブール・ラベ通りが削られ縮小された際に、当時のテナントたちがお金を出し合って創られたものなのだ。

 

       パレスト通り入り口上部のブール・ラベの女神柱    

 

 

 続いてこのような女神柱を採用したパサージュを、以前の記事でも取り上げたのだが覚えているだろうか?そう、ギャルリー・ヴィヴィエンヌだ。

 

      プチ=シャン通り4番地のヴィヴィエンヌのファサード

 

 こちらの女神柱も商業のアレゴリー(比喩)を表現しているとのことだが、やはりブール・ラベのものと甲乙付け難しといったように美しい。1844年のパサージュの作り替え時に新たに制作された。

 

 

 現存するその他のパサージュにもこのような女神柱を採用したものがないかとちょっと調べてみたら見つかった。

 ギャルリー・ド・ラ・マドレーヌである。

(1845年開通)

   ギャルリー・ド・ラ・マドレーヌの女神柱(J・クラグマン作)

 

 こちらの場所は今回の私のパサージュ巡りでは触れるつもりはない。私が取り上げるのはあくまでも自分の足で訪れた場所だからである。だが今回このようにブール・ラベの記事でヴィヴィエンヌに続いてこの写真までも取り上げたのにはもちろん理由がある。

 それはこのパサージュの運命を決定したといっても過言ではない<問題>を含んでいると思われるからだ。

 以下、鹿島茂氏の「パリのパサージュ」からの文章をそのまま引用させて頂く。

  

 パサージュ・ブール・ラベが開通したのは一八二八年の事。パリの至るところにパサージュが設けられた第二次ブームの時期に当たる。

このパサージュの近くには、並行するパサージュ・ソーセッドというガラス屋根のパサージュが造られており、当時のレポーターによれば、2つのパサージュは、ギャルリ・ヴィヴィエンヌとギャルリ・コルベールのように、激しい鍔ぜり合いを演じたという。それというのも、パサージュ・ブール・ラベの設計者であるオーギュスト・ルソンはこのライバルのパサージュからデザインをそっくり拝借してしまったからである。

  いろいろ探してみたけども、このソーセッドというパサージュについて書かれた文章も写真もみつからなかった。でもデザインをそっくり拝借したというからには、当然このファサードの顔とも言うべき女神柱は含まれていると思える。

 もしどなたかどこかでこのパサージュの写真なりそれについて触れた文章を見かけたという方がいればお知らせ願いたい。どの程度にそっくりなのかをぜひこの目で確かめてみたいのだ。

 さてこの盗用問題についてだが、これはオリンピックのマークデザインなどでも最近大変世間を騒がせたりもし、今後もさまざまな分野でたぶん引き摺りそうな問題でもあるのだが、いったいどの程度がボーダーラインとなるかがとても気になるところである。

 もちろんここに挙げさせて貰った女神柱は全く問題にはならない。雰囲気は確かに似ていても明らかに見た目も違うし、パサージュブームに乗った様式のようなものとして流行したという範疇のものに過ぎないと解釈できるからだ。 

 

 

それでは中はどうなっているのか入ってみよう。

    パレスト通りのブール・ラベ入り口のアップ

 

 

 御覧のようにほとんどの店が閉まっている。

 というよりもテナントが入っていない状態なのか?

 見るべきものもなくもはや通り抜けの役目しか果たしていないようだ。

 

        閉散とした内部の様子    

 

 

 いかがだったろうか。

 最初にこのパサージュについて私が語れる体験はないに等しいと言ったが、その意味がおわかりいただけただろうか。

 所詮、二番煎じは上手くいくはずもなく、柳の下にいつも泥鰌はいないということの証明になるのか。それともデザインを盗用されたソーセッドの恨みが伝わったのか。ムンクの叫びゾクゾク(上) 

 あるいはまたライバルがいなくなったことで張り合いを無くした結果なのか、それともパサージュ自体のブームが過ぎ去った原因で、おそらく何れもの理由が絡み合って…。

 その後、ライバル、ソーセッドの消滅とともに、ブール・ラベも衰退の一途を辿るのみとなった。

 

 ここから先は、軽いジョークとして受け取ってほしい。

 さてさて、このブール・ラベという名のパサージュを人間に譬えるとなるとどういうことになるか。

 ――外見は一見美しく魅力的!(女神柱のファサード)。だが、いざ中へ入ってよく見たら(付き合ってみたら)なんの面白みもない(ほとんど店がなくガランとした状態)見かけ倒しの相手だったしゅーんげんなり――ということか。

 あるいは単純に、見栄っ張りという言葉も当てはまりそうだ。

 

 もちろん個人的に何の恨み辛みなどあろうはずもなく、悪口を並べ立てたようで少々後味が悪い気もするが、何を言われようとそれがどこ吹く風といった様子で平然として、今日まで続いているのが奇跡とも思えるほどある意味で不思議なパサージュである。

 

 そんなブール・ラベに、頑張れよ!筋肉と声をかけてあげたくなるのは人情というもの?

 

 

 

次回はいよいよパサージュシリーズ最後の「ギャルリ・ヴェロ=ドダ」の予定です。お見逃しなく!!

 

 

合格今回の記事はいかがでしたでしょうか!!

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