12、テスト投稿・・・第四部④ 夢殿をめぐる幻想 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

最終回です

 

 

 

後世の読者たちが読むことになるこの書物は、ほんものではない。

真の奥義は別のところにかくされてある。

心あらぱ、それをさがしあててくれ・・・』という意味の〈暗号文〉を、

本文の中に潜ませる以外にない」

 

「それを、どこに書き込んだ?」

 

「それが田道間守の物語だ。

『ソノ非時ノ香ノ木ノ実ハ、コレ今ノ橘ナリ』

という一句さ」

 

「・・・『今の橘なり』・・・

『ほんものは橘ではない』が鍵か」

 

 

 

 
 
 
 
不比等と三千代と人麻呂

 

 

「話はもう一度、天武天皇崩御の直後のころ(朱鳥{あかみどり}元年=686)に戻るが、皇后の鵜野{うの}皇女(後の持統天皇)は、わが子の草壁皇子の皇位継承を確実にするために、ライバルの大津皇子を謀叛のかどで死に追いこむほどの非常手段をとった。

にもかかわらずその三年後に、肝腎の草壁皇子が早世した。もっとも、その草壁皇子には妃の阿陪皇女(後の元明天皇)との間に軽皇子{かるのみこ}(後の文武天皇)が生まれていたのだが、まだ七歳で皇位をつぐには幼なすぎた。

そこでやむをえず、祖母にあたる天武天皇の皇后(鵜野皇女)が、空位のままの天皇の政務に二年間あたった後、即位して持統天皇になってから(690)、七年後に皇孫の文武天皇(軽皇子)に位をゆずった。

ところが、この文武天皇もまた10年後(慶雲四年“707)に、二五歳の若さで崩御して、またもやわずか七歳の首皇子{おぴとのみこ}(後の聖武天皇)を遺すことになる。

・・・となると、今度もまた持統天皇の例にならって、首皇子の祖母にあたる阿陪皇女(草壁皇子の妃)が即位して元明天皇となりたいのだが、いまだかつて皇子の妃が天皇になった先例がない。それでもなんとかして、そのことを正当化しようと、例の『不改常典{あらたむまじきつねののり}』という宣命を持ち出す。つまり持統天皇から皇孫文武天皇へ、そして元明天皇から皇孫聖武天皇へ皇位が継承されるのは、持統天皇や元明天皇の父にあたる天智天皇が立てられた原則にのっとってのことである・・・というわけだ。

しかしその程度の理由づけでは元明天皇の即位に不満を持つ人びとを納得させられるものではない。ひとつ違えば反乱もおこりかねない。それを無事に乗り切って、とにもかくにも元明天皇が即位できたのは、藤原不比等が手ぎわよく、今日でいう戎厳令をしいて、すべての不穏なうごきを、未然に鎮圧してしまったからだ。

しかし持統天皇や元明天皇がいわば、四面楚歌の中で孤立状態になりつつあったときに、不比等はなぜ、それほど積極的に援護したのだろうか?・・・歴史家の多くは、その動機が不比等の権勢欲以外のなにものでもないとしているようなんだが、・・・たしかに緒果的にみれぱ、その後、不比等の娘の宮子が、文武天皇の妃となっているし、その宮子と文武天皇との間に生まれた聖武天皇の皇后には、宮子の異母妹の安宿媛{あすかべひめ}(光明皇后)がなったのだから、例の祖母帝から皇孫への皇位継承のパターンも、すべてが、不比等の野望達成の手段だったように見える。

しかし不比等という人物の性格をよく検討してみると、必要以上に細かなところまで気を配るタイプだったらしい。それがどうにも腑に落ちないのは、天武天皇崩御の直後の、険悪な状況の中で、とかく直情径行になりがちの女帝たちに味方するということは賢明な人間なら、むしろ回避するはずなのに、不比等は、なぜ、そんなあぶない賭けに手を出したのか?」

 

「そうだね・・・遠大な計画を緻密に組みたてる人間は、バクチは打たないものだ・・・女帝たちの側から、よほどのさそいがあった気配だね・・・」

 

「おそらく側近の女官たちも集まっていろいろ謀議をこらした末に、不比等を彼女たちの陣営にひき入れることが、是非とも必要だという結論に達したのだろう。それにしても、どうやって、あの慎重派の不比等に、あえて冒険の決意をさせることができたのか?」

 

「化学でいえば、そこに〈触媒〉が必要だな」

 

「染めものに使う、あの触媒ですか?」

 

「なるほど、染め物にも使うだろうな・・・二種類以上の物質に化学変化を起こさせる場合に、さらにある特定の物質を加えると、その反応を急に早めるやつさ。もちろん逆におそくさせるものもあるがね・・・」

 

「まさに、その触媒が、さっき言った『今の橘なり』なんだよ」

 

「きみの回りくどい説明を、少し手っとりばやくさぜる触媒はないものかね」

 

「じゃあズバリ言うよ県犬養三千代{あがたいぬかいのみちよ}・・・」

 

「後の橘三千代だな・・・」

 

「彼女は軽皇子(後の文武天皇)の乳人{めのと}だった。乳母といってもただの女官ではない。父親は県犬養連東人{むらじあづまびと}という人物だが、彼女は天智天皇や天武天皇の曽祖父にあたる敏達天皇の玄孫{やしゃご}の美努王{みねおう}の夫人で、王との間には葛城王(後の橘諸兄)、佐為王、牟漏{むろ}女王(後に不比等の二男、藤原房前{ふささき}夫人)という、三人の子があった。それはともかくとして、三千代は軽皇子誕生(天武天皇十一年=683)を契機として、天武天皇の皇后、鵜野皇女(後の持統天皇)のひとり子、草壁皇子と、その妃の阿陪皇女(後の元明天皇)の側近に仕える身になった。だが、彼女はそのために、やがて持統天皇や元明天皇の懐刀として、悪戦苦闘せざるをえない羽目におちいるのだ」

 

「すると、藤原不比等と女帝たちの仲だちも、彼女がしたと考えられるか」

 

「といっても具体的なことがわかっているわけではないが、草壁皇子が薨じたのは天武天皇の崩御の年から、わずか三年後のことだが、そのときにはもう不比等が、幼少の軽皇子の後楯として全力をつくすことを、はっきり約束している。見ようによってはその密約をとりつけたうえで、持統天皇は安心して即位ができた、ともいえるだろう。それで、それからは不比等も持統天皇の寵臣として、思う存分、政治的手腕をふるうことになるわけだね。

じゃあ、その間に、犬養三千代はどんな動きをしていたか、というと、歴史上にはなにもでてこない。しかし文武天皇の大宝元年(701)に、不比等と三千代の間には、後に光明皇后となった安宿媛{あすかべひめ}が生まれているんだ。では、この二人、いつ、どういうふうに、そこまで接近したのだろうか?・・・三千代の長男の葛城王(後の橘諸兄)は軽皇子の誕生(天武天皇十一年・・・683)と大体同じころの生まれで、しかも三千代と美努{みね}王の間には、それからも二人の子どもが生まれているのだから、天武天皇崩御の年(686)あたりまでは、三千代と不比等はそんなに親しかったとは思われない。だが、それから三年後の草壁皇子がなくなった年(689)になると、女帝たちと不比等の間をむすびつける連絡係りとして、三千代の立場が非常に重要だったことは、間違いない。では、この二人は、公務の上で近い立場にあったから、やがて個人的に親しくなったのか? それとも、先に二人が個人的に親しかったから三千代を通じて不比等が女帝に近づくことになったのだろうか?」

 

「雪が解けて春になったのか、春になったから雪が解けたのか、デリケートなところだな」

 

「ところがね、その疑間を、ある程度は解明すると思うのが、元明天皇即位式のあとの、大嘗祭のあとの節会{せちえ}の・・・」

 

「橘の杯か・・・天皇が三千代に、杯に橘をうかべて与えた橘三千代の姓の由来だね」

 

「・・・それはまったく特別の論功行賞だった。・・・これまでの長い間の三千代の功績をたたえるために、いかにも女帝らしいロマンチックなやりかたで、褒賞として橘の姓を与えた・・・一体、これは、なにを意味するのだろうか。・・・そのとき、三千代と不比等の間に生まれた安宿媛{あすかべひめ}(光明皇后)は、すでに七歳になっているのだから、いうならば三千代は藤原不比等の夫人だね、しかも、元明天皇が厳しい難関を乗り切って無事に即位ができたのは、なにもかも、不比等ひとりの功績といってもいいくらいだ。・・・にもかかわらず、元明天皇が、とくに『これまでの成果は、すべて三千代の手柄ですよ』といわんぱかりに、公式の、最も重要な宴会の席上で、ことさらに彼女を賞讃したのは、なぜか・・・」

 

「そうか、三千代と不比等の関係は、たんなる個人的な恋愛とはいえないようだな・・・それにしても、その、大嘗祭のあとの節会で三千代が橘姓を与えられたということと、君がさっきから、勿体ぶってくり返してる『今の橘なり』とは、どうつながるんだ?」

 

「さっき、柿本人麻呂は、持統天皇のお気にいりの宮廷歌人として、ふだん天皇のちかくにいたはずだから、人麻呂が書きかけていた〈古事記〉の原稿を、不比等が読む機会があったかもしれないといったことね、そこのところを、もうすこしリアリスティックに推理すると・・・二人の間に、あるいは三千代が存在したかもしれない・・・」

 

「なんだ、こんどはその原稿を、皇位継承の裏付けとして活用できる、と最初にひらめいたのは、犬養三千代になるのか・・・」

 

「となるとね、さっきは、人麻呂が例の幻の書を秦ひとから見せられた・・・という筋で推理したわけだが、これが案外、田道間守の持ち帰った奥義書は代々、天皇家に伝わっていたかもしれない。・・・という設定で推理してみると・・・最終的には持統天皇の手もとにあったその奥義書を、三千代が熟読して、彼女の政治的な霊感がスパークした。そして『是が非でも、この書物の〈日本版〉をつくるべきだ』・・・と思い立った・・・」

 

「そこで彼女は、当時もっとも文名の高かった人麻呂に、それを書かせようと考えた、か」

 

「人麻呂は最初、三千代から〈古事記〉の執筆を依頼されたとき、いわゆる宮廷詩人的な気軽さで、注文主の意図するとおりのものを書くつもりだったろう。・・・しかし、いざ仕事にかかってみると、本来の詩人としての魂が、注文主の意図を無視しはじめた・・・」

 

「そこで不比等が権力にものをいわせて、原稿をとりあけようとした、か」

 

「梅原教授の説にならえば、それは和銅元年(708)の三月だ。とすれば、流刑の地にある人麻呂は、前年の十一月に、三千代が橘の姓を賜わった噂を耳にしていた。そして、その賞讃の理由を、誰よりも知りぬいていた彼の思いは・・・『女帝たちの悲願を成就させた表面上の功労者は、もちろん不比等だが、彼がおこなったあらゆる方策のもとをただせぱ、すべて三千代の発案なのだ。しかもその、三千代の思いつきは、かねて田道間守が常世の国から持ち帰った奥義書・・・世にいう〈非時の香の木の実〉だった・・・元明女帝はかの〈・・・木の実〉のことを頭に描きながら、三千代に橘の姓をさずけられたにちがいない・・・今、自分がここに持ってきているこの〈古事記〉の原稿こそ、本当の〈非時の香の木の実〉なのに・・・これを自分から無理やり取りあげようとしている三千代や不比等は、かならず内容を改ざんする・・・あの理想の奥義書は、裏から読めば、そのまま権謀術数の指南書になるのだから・・・だがそれはもう、田道間守が持ち儒った〈非時の香の木の実〉ではない。そんなものは、もともと日本にある、ただの〈橘〉にすぎないのだ!』・・・」

 

「それで、われわれは今日、人麻呂の原稿を改ざんしたり尻切れトンボにされた〈古事記〉を読むことになるんだな? しかしそうならば〈本ものの非時の香の木の実〉は、どこへ行った?」

 

 

 

 

夢殿をめぐる幻想

 

 

「さあ、そこでね、元明天皇即位後の、大嘗祭につづく節会なるものが、いつおこなわれたかということが、問題なんだ」

 

「大嘗祭は天皇が即位してはじめての新嘗祭だな、その年の新穀を、天皇が神々に供える・・・即位が七月以前なら、その年の十一月、だったな?」

 

「そう、それで、元明天皇は慶雲四年(707)の七月十七目即位されたのだから、当然、大嘗祭は、その年の十一月の下の卯の日で、三千代が〈橘〉の姓を賜わったのは、その翌日の、豊明の節{とよのあかりのせちえ}の席上だったことになる。ところがね、『三千代が橘姓を賜わったのは、その翌年、和銅元年(708)の大嘗祭の時だった』という説もあるんだ」

 

「それはなにかの問違いじゃないのか? 大嘗祭は、天皇にとって、一代に一度だけの祭式だよ」

 

「そのはずだね、しかし実際には、平安朝になって〈延喜式〉(十世紀に編纂された法令式の集大成)ができあがるまでは、大嘗祭と新嘗祭の区別が、かならずしもはっきりしていないのだ」

 

「じゃあその大嘗祭が翌年の十一月だったかもしれないとすると、それがどう間題になる?」

 

「万一、そうだとするとね、それに対して人麻呂の死が、それより後の和銅三年(710)だった場合には、『今ノ橘ナリ』と三千代がもらった橘の褒賞を謝刺して古事記に書き込んだ、ということも、成り立つが、彼がもし和銅元年(708)の三月にすでに死んでいた、とすれば、そんなことはありえないことになる・・・」

 

「当然だね、死んでから七、八カ月もたっては、いかに歌聖といえども橘の杯の皮肉も言えない」

 

「その場合は古事記の田道間守の条に『今ノ橘ナリ』と書き加えたのは犬養三千代後の橘三千代だったという筋書きに変わらざるをえない」

 

「またまた奇想が天外から落ちてきたようだ。その理由を展開してもらいたいね……」

 

「それにはすくなくとも三つのケースが考えられる。・・・第一は、これまで想像してみたのとほとんど同じ筋道だが、ちがう所は、三千代と人麻呂はまったく同じ意見だったということ。それに対して、不比等が、原稿の後編で、聖徳太子や弥勒菩薩の再来が強調されるような構想を認めなかった」

 

「となると、衝突したのは、三千代と不比等・・・」

 

「だが、結局は、三千代のほうが、心ならずも折れるより仕方がない。もともと女帝たちの願望を達成させることが主眼である以上、文武天皇の乳人として、肉親にまさるとも劣らない心情的関わりに、はまり込んでいた三千代として、白分の個人的な理想を貫くなどということは現実と相容れないことだった・・・」

 

「なるほどそういう設定なら、人麻呂が何年に死んだにしても関係ないな。とにかく大嘗祭のあとで、三千代が『今の橘なり』と書きこむこともありうる・・・」

 

「そのかわり、元明天皇が三千代に橘の姓をさずけた意味が、少しちがってくる。それは、三千代の長年の功績をたたえるだけでなく、彼女をして無理に妥協させたことへの慰めやいたわりの気持が充分に籠められていた・・・」

 

「しかしそれにしても、立場がこれほどちがう三千代と人麻呂が、そんなに完全に意気投合したなんて考えられるか?」

 

「それが不合理すぎるというのなら、第二のケースを推理してみよう。こんどは〈古事記〉の原稿を執筆したのは、三千代自身で人麻呂は無関係だった、という場合。つまり彼女は、あくまで純粋なロマンチストとして、文学的衝動だけで制作をはじめたのだが、不比等がそれに目をつけて、『これを、もっぱら神代の巻に重点を置いて編集すれば、皇位継承間題の裏づけとして利用できる』と考えた。もちろん三千代は反対するが、第一のケースとまったく同じ状態のもとに、押しきられてしまう・・・」

 

「三千代が『今の橘なり』という言葉を書いたと想定する筋書き、三つあるって言ったな、もう一つは?」

 

「三千代の前の夫だった美努王が書いたのかもしれない」

 

「おい、正気か?」

 

「不比等との関係から、そんなことは、ありえないと考えるんだろうが、そもそも橘三千代とは、どんな性格の女性だったのだろうか」

 

「頭脳明晰で男も及ばぬ権謀術数・・・というんじゃないのか?」

 

「というよりはむしろ、母なる大地のごとき無邪気な包容性と、当時の女性随一の学問教養とが、凡人には想像できないような、ラジカルな思いつきを、続々と可能にした・・・ように見えるんだ。

・・・要するに彼女は周囲の敬愛を一身にあつめ博愛を与えつくして貫いた生涯だったんだ・・・」

 

「うーん・・・きみもさっき言ったげど、彼女の長男の橘諸兄がね、母親が不比等と再婚してからもらった橘姓を、自分から朝廷に請願して名乗ったということは、ぼくも、ずっとふしぎに思っていたんだ。しかし最後まで敬慕していたのなら、それでわかる・・・すると〈幻の古事記〉は、美努王が書きかけて死んだものを、三千代が完成しようとしたか?」

 

「美努王の先祖の敏達天皇は、とくに日祀部{ひまつりぺ}を創設したくらいだから、太陽神崇拝だったにちがいない。その子孫の美努王に、幻の奥義書が伝わっていた・・・ということはありうるだろう、となると、稗田阿礼は、『日枝{ひえだ}の生まれ』つまり皇族出身ということにもとれそうだ。前後の関係から想像して、不比等と美努王はそれ程、年がちがっていなかったらしいから、美努王が『年はこれ廿八、ひととなり聡明にして・・・』という賛辞も、当たるだろう・・・不比等は、三千代の〈古事記改作〉への不満をやわらげる一策として、わざと安万侶に、そう書かせた・・・ということだって、考えられる・・・」

 

「まさに絢燭たるグロテスク模様だな・・・まあ、仮説っていうやつは、意外であるほど活性剤的効力があるから・・・それにしても、もし古事記の原作を三千代がひとりで、あるいは人麻呂ないし美努王の遺志をついで書きあげようとした、とした場合、・・・三千代の重大なモチーフとなった・・・と、きみが想定しているということになるらしい、彼女の、聖徳太子崇拝という証拠は?」

 

「三千代が死んだのは、天平五年(733)の一月だ。光明皇后は生母の死を深く悲しんで、翌年の一周忌には、藤原家の氏寺だった奈良の興福寺に、西金堂を建立している。有名な阿修羅像なども、そのときに造られた。・・・だから、そのころの慣習からすれば、三千代の形見は主として興福寺に納められるのが白然だろう。ところが、三千代が遺した邸宅や遺品の多くは、聖徳太子に最もゆかりの深い法隆寺に贈られているんだ」

 

「ああ、法隆寺の玉虫の厨子、あれも三千代の遺愛の品だな、国宝の・・・」

 

「法隆寺という寺は、元来、聖徳太子の時代に建てられたのだが(607)、天智天皇の時代に、火事で全焼してしまった(670)。しかしその後、どうやら元明天皇のころには再建されたらしい。ところが太子の死後ちょうど100年たった時期に、行信という聖徳太子への熱狂的信仰者が現われて、法隆寺の東隣りにある斑鳩{いかるが}の宮の敷地にまでも伽藍を建て増そうと思い立った」

 

「斑鳩の宮というのは、太子の住まいの御殿だったのでしょう?」

 

「太子の死後は、山背大兄王の住まいになっていたのだが、蘇我入鹿がさしむけた軍勢によって焼きはらわれてしまった・・・。例の行信という坊さんは、なぜかそこに、あの夢殿を中心とする、法隆寺東院なるものを建てることにしたのだ。それが完成したのは、天平十一年(739)ごろらしいから、三千代が死んでから六年ほどあとになるが、おそらく、三千代は生存中に、白分の邸を法隆寺に寄進することを、行信と約束していたに相違ない。そして、そのことを、光明皇后をはじめ三千代の周囲の人々は、はっきり承知していたのだろう。・・・さあ、そこで、またまた詮索したくなるのはどういう動機から、行信は100年以上前に死んだ聖徳太子を慕って、その顕彰に生涯をささけるようになったのか? ということだ」

 

「最初に思い立ったのはその行信という坊さんでなくて、橘三千代だった・・・ということも考えられるな」

 

「古事記の中で描くことができなかった三千代の理想、現実の利害にゆがめられないロマンを、行信の法隆寺東院建立に託すことによって花咲かせた・・・とも想像できる。なにしろ、太子の冥福を祈るための〈聖霊会{しようりようえ}〉なるものをはじめたのも行信といわれているんだ。ところが、その法事の行われる日が、今日では四月十二日だが、元来は、陰暦二月二二日、これはおそらく春分の日の太陽神の復活の日を意識したものにちがいない」

 

注:紫門

・・・世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり・・・

これは法隆寺に納められた天寿国繍帳に織り込ませたもので、

聖徳太子の妃の大郎女が織らせたものと言われていますが・・・

大郎女が三千代だと考えると面白いです

「世間虚仮」とは「夢」そのものですからね・・・

不比等、つまり藤原氏の犯した罪の深さに贖罪の意味で

三千代は太子信仰に帰依したとも考えられます

つまり中大兄皇子と鎌足が入鹿(聖徳太子)を殺したことを知っていた・・・

であれば三千代の娘である聖武天皇妃の光明皇后が

癩病患者の体を舐めて癒したという伝説も納得できます

三千代も光明皇后も藤原の血塗られた罪を贖おうとしていたと紫門は考えています

 

 

「なるほどな・・・それにあの夢殿というのが、なんとも異様だね、本尊の救世観音は秘仏ということで、明治になるまでは法隆寺の坊さんでも、夢殿の中に、はいれなかったそうじゃないか」

 

「観音菩薩のことは法華経の『普門品』にくわしく書いてあるけれども、サンスクリットの原典ではあの普門品にあたる章は『あらゆる方角(十方)に顔を向けたほとけ』となっている。そこから中国や日本では、十一面観音の像がっくられることになったのだが、ゾロアスター教の教典では、ミスラ神(ミトラス神のイラン名)は千の耳と万の目を持っているということになっている」

 

「すべてのもののあらゆる動きを見聞きできる神という意昧だろう・・・すると、救世観音はミトラス神でもあった、といえてくるな?」

 

「しかも、夢殿の救世観音は聖徳太子そのものだともいわれているんだ。それに、三千代の形見の玉虫厨子はさっきの話の、涅槃経の雪山大士『捨身飼虎』の絵で知られているよね、

これもイエスが身を捨てて全人類を救う話や、

太陽神が殺されて、やがて復活する神話に通じる」

 

「その雪山大士の『諸行無常・・・』を意訳したという『色は匂えど・・・』も、まあこれは今様ですから平安末期になってから生まれたにしても、誰かがこの裏にとがなくて死すという暗号文を埋めて、・・・さっき中村先生のおっしゃった、この作者がキリスト教徒だという噂がある、ということは、そこにもなにか消えないでつづいている秘伝が、あるのかもしれない・・・という気がしてきました・・・」

 

「しかし・・・そうなるとだな、ほんものの〈非時の香の木の実〉は、橘三千代の手を通じて法隆寺のどこかに納められているかもしれないじゃないか・・・・。」

 

「それにしても橘三千代が死んでから19年後の天平勝宝四年(752)に、奈良東大寺でおこなわれた大ビルシャナ仏(大日如来=太陽の神)の開眼供養こそは、イクナトン以来、太陽神レエの信仰をまもり伝えてきた『ヘリオポリス(太陽の都)からの教え』(景教)の信者たちにとっては、空前絶後の祝典だったのかもしれない・・・」

 

「しかしその景教徒だった秦ひとたちは、奈良時代の終わりとともに・・・という感じで歴史から消えていくんじゃないのか?」

 

「日本における絹貿易商としての秦ひとたちの繁栄は、おそらく聖徳太子時代が絶頂だったのだろうね、だが、じつは太子の祖父の欽明天皇(在位539~571)のころに、東ローマ皇帝ユスティニアス一世(在位527~565)が、二人のペルシア僧をそそのかして、中国から蚕を盗み出させることに成功したとき、時代は方向を変えはじめたんだ。

それにもかかわらず、その後も、200年ほどの間は中国も絹貿場がもたらす利益で有頂天になっていた。しかしやがて、ヨーロッパで絹の白給自足がはじまると、シルクロードの交易は、昔ほどの魅力がなくなる。そして、中国も日本も、あの唐王朝初期や、奈良朝時代のような、爆発的に文化を発展させる原動力を、急激に失ってしまった・・・」

 

「同じくり返しが、二十一世紀の日本にまた迫ってくる気がするね・・・あをによし奈良の都は咲く花の・・・高度成長のはかなさはあとになって、ふり返ってみたときでないとわからないんだ・・・」

 

「大仏開眼という大ぺージェントをクライマックスとして、もっとも華やかだった古代日本の歴史は、一気に下り坂になる。それと同時に、例の幻の奥義書の存在も、その後はまったく行方を消してしまう・・・」

 

「ふーん・・・なんとなく読めてきたぞ・・・その幻の奥義書が封じ込めてある契約の箱は、箱根のまんなかの、ネボ山ならぬ神山の麓にかくされているらしいな」

 

「中村先生、その神山の麓は聖なる荒野=仙石原の、どこかだっておっしゃりたいんでしょう」

 

「ああ、博士のいうとおりかもしれない。

・・・夜が明けたな・・・

雪もやんだようだ。ひとつ、これから、さがしに行くか・・・」

 

「この大雪じゃ手も足も出やしないよ。

・・・何千年にわたる無数の謎で閉ざされた歴史のようだ・・・」

 

 

 

それから一日たった午後、快晴の陽をまぶしく反射する積雪の中を、草庵の外の、車が雪を被って待っているところまで見送りに出た私に、中村博士は、ささやくように言った。

「なんとかして彼に書かせられるかと思って相当頑張ったんだけど、やっぱりその気はないらしいな。すっかり煙に巻かれたよ。・・・でも、おとといの晩の話、ずっと録音してたようだね、あれ、消さないでおいてくれよ。桃棲じいさんがどうしても承知しなかったら、彼が死んだあとで、かならずぽくがまとめるから・・・彼の名前で出そうよ・・・」

 

 

 

 

「・・・でもね、その中村先生のほうが、さきに宇宙の本源に帰って行っちゃったの・・・去年の暮に。それ以来、桃棲じいさんの沈黙はふかくなるばかり・・・もう、あの雪の夜のような話、することはないでしょうね・・・というわけで、どこまでが冗談か、どこまでが本気かそれどころか、狂気か正気かさえ、正直いって、私にはわからない・・・」

 

ほとんど自間自答で私が話しおえたとき、すでに日は暮れきって、どこからか入ってくる外燈のかすかなあかりに、室内の三人の位置が、ぼんやりと見えるだけだった。彼女たちは、わざと電灯をつけなかったのだろうか。

 

「つまり、ふり返れば、みんな帰って行くところは同じ・・・そして、幻の奥義書は、めいめいの家にあるんじゃない? メーテルリンクの青い鳥じゃないけど・・・」

ほの暗い中で曙生さんが言った。

 

「はい。そのことはアブラハム大叔父の心も、同じことかもしれません。彼は最後に、そのことを、たしかめたかったのかもしれません・・・だれかに・・・。あの、もしかするならぱ、丹沢の山の、あのお年よりのジャーナリストも、ほんとうの、お気持ちはそのことなのではないのでしょうか」

 

ソフィアは、さっきまでの上手な日本語を忘れたように一語一語、区切って、ゆっくりと言った。

 

「木を割りなさい・・・・・・石を持ちあげなさい・・・・・・か」

 

言いながら、しずかに立ちあがった曙生さんの顔が、パッと輝いた。屋外の、夜空に母く花火があがったのだ・ちょっとして、破裂音とともに、群集のどよめきであろう響きが、遠くやわらかく伝わってきた。

それは、『わたしは光である』と、誰かが、大空から呼んでいるかのようだった。

 

 

 

 終わり