双子のイエス、アテン賛歌 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

 

 

 

 

 

 

アテン賛歌

 

 

 

 アメンホテプ4世(別名アクエンアテン)の時代(紀元前1353年-1336年)の人が墓に書いた、アテン神をたたえる歌。アメンホテプ4世の行った改革は、アマルナ改革として有名である。アテン神を崇拝し、治世4年目(前1348年ごろ)にアテン神に捧げる新都アケトアテン(現アマルナ)を建設。王朝発祥の地テーベを放棄し、遷都した。その内容は、多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた事が挙げられる。

 

 

汝は空の際に美しくも姿を現す。おお生命の源である生けるアテンよ。
汝が東の地平線より昇り来るとき、汝はすべての国土を美でもって満たし、
汝は美しく気高くすべての国の上に輝きわたる。
汝の光は、国々を、汝が造った万物の果てまでも包み込む。汝は遠く隔っているが、その光は地上にあり、汝は人々の前にあるが、その足取りは見分けがたい。
汝が西の果てに沈むとき、地は死のごとく闇にとらわれる。
人々は頭を包んで部屋の中で眠り、
(目は別の目を見ることは出来ない。)

獅子はみなその穴より出で、這うものが出てきて人を刺す。
夜の帳(とばり)が下り、世界は沈黙した。
造り主は地平線の彼方で休む。
汝が地平線より昇り来るとき、闇は追い払われる。
人々は目覚めて立ち上がり、世界中でその仕事にとりかかる。
国中が活動し、すべての群がその牧草に満足する。
草が緑に育ち、鳥はその巣から飛び立ち、その翼はあなたのカーを礼拝する。
すべての小家畜は、その両の足で飛び跳ね、そして飛び、舞い降りるすべてのものも。
それらはあなたが昇ると生きる。

汝のわざのなせるものはいかに多いことか。しかれども、それらは人々の眼には隠されている。
おお唯一の神よ、汝に比すべきものは他にない。
汝は思いのままに世界を創造された。
そして、人類、大家畜、小家畜、地上にいて、その両足で歩む全てのもの、空中にいて、その翼で飛ぶもの、カルゥとクシュの国々、
エジプトの国を創った。
あなたは、すべての人を、そのあるべき場所に置いた。

あなたは彼らの糧を作り、誰もがその食物を持ち、その寿命が数え上げられる。
舌は言葉によって区別され、彼らの性格もまた、区別される。
彼等の皮膚の色は区別される。
あなたは、それぞれの国の住民を区別した。

すべての遠い国々、それらをあなたは生かす。あなたは天にハピ(ナイル河)を置いた。
それが彼らのために下るように。それは海のように、山々の上に波を作りだす。
それが彼らの畑と彼らの町を潤すように。

あなたは私の心の中にいる。
あなたの息子であるネフェル・ケペル・ラー=ウア・エン・ラー(アクエンアテン)以外に、
あなたを知る別の者はいない。
あなたは彼に、あなたの計画とあなたの力を知らせる。

 

 

 

 

 

 

この唯一神アテンをたたえるアテン賛歌は、旧約聖書の詩篇104章と酷似していることが指摘されている。現在、ユダヤ人がエジプトから脱出したとされる考古学的証拠は存在しないが、アテン賛歌が詩篇104章に取り込まれている事実から、ユダヤ人がエジプトにいた時期があることが推測される。アテン信仰は世界初の一神教と呼ばれ、ユダヤ人の一神教信仰もこれに大きな影響を受けている可能性が高い。

 

 

 

 

 

詩篇104章

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい
光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り
天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし
風の翼に乗って行き巡り
さまざまな風を伝令とし
燃える火を御もとに仕えさせられる。
主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。
深淵は衣となって地を覆い
水は山々の上にとどまっていたが
あなたが叱咤されると散って行き
とどろく御声に驚いて逃げ去った。
水は山々を上り、谷を下り
あなたが彼らのために設けられた所に向かった。
あなたは境を置き、水に越えることを禁じ
再び地を覆うことを禁じられた。
主は泉を湧き上がらせて川とし
山々の間を流れさせられた。
野の獣はその水を飲み
野ろばの渇きも潤される。
水のほとりに空の鳥は住み着き
草木の中から声をあげる。
主は天上の宮から山々に水を注ぎ
御業の実りをもって地を満たされる。
家畜のためには牧草を茂らせ
地から糧を引き出そうと働く人間のために
さまざまな草木を生えさせられる。
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
パンは人の心を支える。
主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち
そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。
高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。
主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。
あなたが闇を置かれると夜になり
森の獣は皆、忍び出てくる。
若獅子は餌食を求めてほえ
神に食べ物を求める。
太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き
それぞれのねぐらにうずくまる。
人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。
主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
同じように、海も大きく豊かで
その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
舟がそこを行き交い
お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
彼らはすべて、あなたに望みをおき
ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
あなたがお与えになるものを彼らは集め
御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
御顔を隠されれば彼らは恐れ
息吹を取り上げられれば彼らは息絶え
元の塵に返る。 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し
地の面を新たにされる
どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
主が地を見渡されれば地は震え
山に触れられれば山は煙を上げる。
命ある限り、わたしは主に向かって歌い
長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ
主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

 

 

 

 

 

 

詩の分析は、それを文学作品と見なすものと、その政治的および社会的宗教的意図を考慮するものとに分けられます。

ジェームズ・ヘンリー・ブレストは、アメンホテプ4世を歴史上最初の一神教徒および科学者と見なしました。1899年、フリンダース・ペトリーは次のように書いています。

これが私たちの現代の科学的概念を満たすために発明された新しい宗教である場合、私たちは太陽系のエネルギーのこの見方の正しさに欠陥を見つけることができませんでした。アメンホテプ4世がどれほど理解したかは言えませんが、彼の見解と象徴性は、現在のところ論理的に改善できない立場に確かに前向きでした。宇宙の唯一の主であるヘリオポリスの古いアトンから発展したこの新しい崇拝に固執している迷信や偽りのぼろきれは見つかりません。[14]

ミリアム・リヒタイムは、賛美歌を「唯一の神の教義の美しい声明」と表現しています。[15]

1913年、ヘンリーホールは、ファラオは「科学的精神の最初の例」であると主張しました。[16]

エジプト学者のドミニク・モントセラートは、これらのテキストを説明するために使用される用語について説明し、正式な詩または王室のユーロジーとして説明しています。彼は「賛美歌」という言葉を「感情の溢れ出し」を示唆していると見なし、アテンと王室の夫婦を称える「賛美、形式的および修辞的な賛美の声明」と見なしています。彼は、ジェームズ・ヘンリー・ブレストが賛美歌として普及したことを認め、ブレストはそれらを「自然の秩序の美しさと恩恵の福音、人間の魂への自然のメッセージの認識」と見なしたと述べています(ブレストからの引用)。[17]

モントセラトは、賛美歌のすべてのバージョンが王に焦点を当てていると主張し、特定の革新は、アケナテンに利益をもたらす方法で神と王の関係を再定義することであると示唆し、エジプト学者ジョン・ベインズの声明を引用して、 「アマルナの宗教は神と王、あるいは最初に王、次に神の王でさえ。」[18] [19]

ドナルド・B・レッドフォードアメンホテプ4世が自分自身をサンディスクの息子と呼び、神と被造物の間の主な仲介者として行動した一方で、アメンホテプ4世の時代以前の何千年もの間、王たちは同じ関係と司祭の役割を主張していたと主張しました。しかし、アケナテンの場合は、天の父と息子の関係に重点が置かれているため、異なる場合があります。アケナテンは自分自身を「あなたの手足から出てきたあなたの息子」、「あなたの子供」、「太陽円盤から出てきた永遠の息子」、そして「あなたの体から出てきた唯一の息子」と表現しました。父と息子の親密な関係は、王だけが「彼の父」の心を本当に知っており、その見返りに彼の父は彼の息子の祈りに耳を傾けるようなものです。彼は彼の父です」地球上のイメージとアケナテンが地球上の王であるように、彼の父は天国の王です。大祭司、預言者、王、そして神として、彼は新宗教制度の中心的地位を主張しました。彼だけが彼の父の心と意志を知っていたので、アケナテンだけが彼からのみ来る真の教えですべての人類のためにその意志を解釈することができました。[20]

 

 

 

 

 

 

父と子

 

人の子

 

イエスの言葉

 

 

殺されるに至って

 

殺す者を許し

 

全てを許す手本を示した

 

 

 

 

 

 

 

 

前回、西欧キリスト教会から外典はおろか偽典どころか、その存在を消されてきた福音書である「トマスによる福音書」を取り上げました。

 

5、人間は「光から来た」「光の子ら」であるが、、現実には「身体」のなかにあって、それ(「光」あるいは「霊魂」としての本来的自己)を認識していない。(29、いかにしてこの大いなる富(本来的自己)がこの貧困(身体と霊)の中に住んだのかを不思議に思う)。

 

特にこの一説は密教として景教、そして空海に連鎖したと、紫門の直感が叫んでいます。

 

例えばイエスがこの境地に達していたならば、

イエスと行動を共にするだけでその境地に浸ってしまう・・・としたらどうでしょう?

 

言葉で教え諭すのではなく、存在自体が教えになってしまいますね。

 

それが偉人と言われる人物の驚愕すべき魅力だったとしたら?

 

 

 

 

紫門は維新の豪傑の中で西郷隆盛だけはその人格をリアルに想像できません。

龍馬も高杉も、紫門の出会った人の中でその面影が当てはまる人がいるのです。

 

西郷隆盛の事績も言葉も沢山残っています。しかし、それらを組み立てると人間の形にならないのです。

 

行動を共にするだけで命も惜しまずその人を愛してしまう・・・そんな人物に出会ったことがありますか?

 

一日西郷に接すれば、一日の愛が生じる。

三日接すれば、三日の愛が生じる 

親愛の情は日々募り、もはや去ることは出来ない。

ただただ生死をともにしたいのだ。

 

これは西南戦争で増田宗太郎が西郷の魅力を余すところなく表現したものですが、

こんな人物に紫門は不幸にして会ったことがございません。

 

紫門は過去の記事「右脳、霊が見える仕組み001」で書きました。

「それはあいつの目が悪いからだ。他人の記億が見えるんだ」

人間には少なからず他人にシンパシーを感じる能力があると信じます。

 

その能力がイエスや空海や西郷のような人物と連鎖したらと考えます。

 

それが前回の「真実の精神的連鎖」でもあり、アセンションの一つの道だと考えています。

 

 

 

 

 

つまり、初めの一人がアセンションに成功すると、

世界中が101匹目の猿😀

 

・・・になるんじゃないかと。

聖者の再臨とはそのことではないかと思うのです。