双子のイエス、眞正なる精神的連鎖 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

 

奥の院に何故「大秦景教流行中国碑」が建っているのか?

 

この石碑は、中国西安にある碑林博物館所蔵の「大秦景教流行中国碑」を、

イギリスの宗教学者エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人が忠実に再現して、

模造碑として明治44年(1911年)に建立したものである。

 

 

そのゴルドン夫人の著作があります。

青空文庫で無料で読めますよ。

翻訳が明治時代なので紫門が読み下してみます。

 

 

 

私の仏教の知識は乏しいけれど、日本に居た間に学習したこと、中国の仏教学者から学んだことを、

今、「大徳」の求めに応じて、おぼつかないけど書きます。

 

その中国の仏教学者は古代インドの仏教詩人を訳して読んで、

大乗仏教とキリスト教の教義に驚くべき同位点を発見しました。

私も仏教とキリスト教の間に、喜ぶべき思想の融和を認めたけど、

言葉は全然違うし、歴史的連鎖は繋がらないけど、

 

此兩者の間には眞正なる精神的連鎖の慥(つくり)に存在せることを感ぜざるを得ず。

 

私は不幸にしてこの大問題に無知だけど、

さらに深く研究して

 

一層深く教理に悟入せんことを希望して止まざることを茲に表白するものなり。

 

きっといつの日か歴史的連鎖を見つけて、

仏教徒とキリスト教徒の利益となるでしょう。

 

紫門もまた、歴史的連鎖を証明すべく、

余暇の時間を割いて来た研究者の端くれかもしれません。

ゴルドン夫人の謙虚さは「奥ゆかしさ」であり

無知を知る探究者の立ち位置を吐露しています。

 

ゴルドン夫人は「大乗仏教」と書かれていますが

空海は密教であり、密教は「小乗仏教」です。

 

大乗とか小乗で宗派が差別しあってる時点で

日本の葬式仏教は終わっていますから

紫門は何も気にしません。

 

空海は唐で密教の奥義を授けられていますが

結果として大衆に奥義を広めていません。

しかし人気がある。

イエスも結果として大衆に奥義を広めていません。

しかし二人とも精神的連鎖は大衆に繋げています。

宗教に夢中にさせる何か・・・

ゴルドン夫人も空海が「好き」になってしまったのでしょう😀

 

 

弘法大師も又筆法に熟し、五筆運用の技を逞くし、假名文字を四十八字の教歌となし。

 

色は匂へど散りぬるを
    わが世誰ぞ常ならむ
有爲の奧山今日越えて
    淺き夢見じ醉ひもせず

 

“Fragrant flowers are very sweet,
But one day they will fade away,
Who can say “This world's unchanging”?
Crossing o'er the mount of changes to-day,
We shall find no dreaming, nor illusion
          But Enlightenment!

と云へり。

 

 

 

 

この英文イロハをGoogle翻訳してみましょう😀

 

「香りのよい花はとても甘いです、

しかし、いつの日か彼らは消えていくでしょう、

「この世界は変わらない」と誰が言えるでしょうか。

今日の変化の山を越えて、

私たちは夢も幻想も見つけません

しかし悟ります!

 

私たちは夢も幻想も見つけません

しかし悟ります!

 

まさかイロハ歌に

こんな意味があったなんて驚きですね。

日本語は難しいです。

 

この空海の世界観がイエスの世界観と連鎖するのであれば、

諸行無常

どこを切っても金太郎・・・

真実は一つ!

 

おっと、また脱線しそうですね、

「万世一系の嘘」シリーズで脱線しまくったので

今回は気を付けます。

 

とにかく大金持ちで敬虔なクリスチャンのゴルドン夫人、

世界旅行で不思議の国、日本に気付いてしまった。

彼女のお墓はこの景教碑の隣にあります。

 

日本の坊さんが

「それは偶然の一致ですっ!」と誤魔化すものを

徹底的にねじ込んでくれたわけです。

しかし日本人で誰もこの研究を引き継がなかった・・・

嘲笑されて権威を失うし

一銭にもならないからね。

 

 

 

明治に来日した宣教師が不思議がります

 

この国は何かが変だ・・・子供も大人も貧しさの中で明るく笑っている・・・

 

他のアジアの国では、こんな光景はなかった・・・と

 

 

ゴルドン夫人が日本で何を見つけたか・・・

 

キリスト教を体現した国、

直感でそう感じたかもしれません。

 

でもこの民族はイエスも知らないし聖書も読まない

明治初期に聖書の「愛」が訳せなくて「お大切」と訳したくらいです。

 

「愛」を知らずに「愛」で溢れた不思議な国・・・

 

 

ゴルドン夫人が興味を持って探求しても

キリスト教の歴史的連鎖をこの国に見つけられなかった。

 

唯一の鎖は「大秦景教流行中国碑」であり、

それさえも中国で止まっている。

日本には景教寺院が無い。

 

ならばキリスト教の愛は仏教に紛れてこの民族を感化させたのでは無いかと・・・

そして中国の景教に偉人空海ならば接触し得たかもしれない、と・・・

 

でもね、紫門は思うのです、

もっと昔からこの国にはキリスト教的愛に溢れていたと・・・

当たり前のように

 

日本書紀の「愛瀰詩」・・・なんて当て字は

柿本人麻呂以外に考えられないのです。

奈良時代に「愛」を知っているのは詩人だけでしょう。

 

 

 

 

 

ゴルドン夫人が高野山に景教碑を私費で建てたのが明治44年(1911)、

 

大正14年(1925年)に京都で死去したゴルドン夫人

 

 

 

昭和12年(1937)に出版されたこの本を見たらさぞかし喜んだことでしょう😀

 

 

 

 

おそらく世界で初めて

十字架で死んだのはイエスの弟だと

そしてイエスは日本へやって来て日本で死んだと書かれた本です。

 

山根キクさんも敬虔なクリスチャンであり探究者です。

竹内文書も絡んでくるので面白いですよ。

 

 

 

 

 

 

 

1945年エジプトのナグハマディで「トマスによる福音書」が発見されました。

 

 

 

 

著者――使徒トマス

本福音書の本文には「使徒トマス」により書き記されたとある。ただし、学問上、実際に使徒トマスによって書かれたものとは考えられない[3]

「トマス」は、アラム語で「双子」を意味する言葉「テオマー、トーマー」(ܬܐܘܡܐ, Te'omā, Tōmā)に由来し、ギリシア語では、音訳して「トーマース」(Θωμᾶς)とするか、意訳して「ディデュモス」(Δίδυμος)とする。彼は、「ユーダース・トーマース」(Ἰούδᾱς Θωμᾶς)、または「ユーダース・ディデュモス」(Ἰούδᾱς Δίδυμος)とも称され、本名は「ユダ」で、恐らく「イスカリオテのユダ」らと区別するために[4]、「双子」を意味する呼び名が付けられていると思われる[5]

本福音書の序では、ギリシア語の音訳語と意訳語を並列して「ディデュモ(ス)・ユダ(ス)・トマス」(コプト語: Ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ Ϊⲟⲩⲇⲁⲥ Ⲑⲱⲙⲁⲥ, Didumos Ïoudas Thomas)と書かれている[6]

そもそも、使徒トマスがなぜ「双子」という呼び名を持つのか、また誰と双子であったのかは不明であるが、

本福音書では、イエスと「双子」であったと示唆され、高く評価されている[7]

ただし、グノーシス主義的な立場から述べた象徴的な意味での双子であって、必ずしも血縁の兄弟を意味するものではない[8]

現行の新約聖書では、使徒トマスは、十二使徒の一人に数えられるだけであまり目立たず、時として低く評価されている[9]

 

 

多数の評価なんて気にしません。

所詮、権威や常識や体裁や面目やらを気にしている凡人の同調意識です。

 

要はその言葉が光り輝いているかどうかです。

 

真実は自分が感じる信実です。

 

 

 

 

景教の総本山であるシリア教会はトマスが作ったのです。

いわばトマス派のキリスト教です。

三位一体説でローマから弾き飛ばされてシリア教会へ逃げ込んだネストリウスなんて鼻くそですよ。

 

イエスはアラム語で説教しました。

シリア教会もアラム語を主体としました。

イエスをギリシャ語やラテン語で理解するのと

アラム語で理解するのとでは

どちらが本質に近づけるのでしょうか?

 

ネストリウスとその取り巻きも最初は威勢よかったでしょうが

みんなアラム語で布教するようになったそうです。

 

さて、シリアからシルクロードを伝わってトマス派のキリスト教に「景教」と言う漢字が当てられました。

その辺りの細かい経緯が景教碑には記されているようです。

 

 

ナグハマディで見つかった「トマスによる福音書」

イエスの語録集であり、マタイとルカが参考にしたという「Q資料」では無いかと言うことで

「Qの福音書」とも呼ぶ人がいるそうです。

 

その「トマスによる福音書」に関する記事を最後に少しご紹介します。

 

  • 神話の位置にある世界観[編集]
  • 訳者によれば、グノーシス主義は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。
  • しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。
  • 人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている。
  • 訳者の解説には、7点の神話論の痕跡があると述べられている。[19]
  • 1、天地は消え去る。(11、この天は過ぎ去るであろう。そして、その上も過ぎ去るであろう。)[20]
  • 2、父なる神のほかに、真実の「聖霊」が「命」の根源として想定されている。(101、しかし、私の真実の聖霊は私に命を与えた。)[21]
  • 3、神々は消極的に評価されている。(100、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に渡しなさい。そして、私のものは私に渡しなさい。)[22]
  • 4、イエスは父なる神から出た者であり、すべての上にある光である。(61、私は同じ者から出たものである。私には父のものが与えられている。)[23](77、私は彼らすべての上にある光である。)[24]
  •  5、人間は「光から来た」「光の子ら」であるが、、現実には「身体」のなかにあって、それ(「光」あるいは「霊魂」としての本来的自己)を認識していない。(29、いかにしてこの大いなる富(本来的自己)がこの貧困(身体と霊)の中に住んだのかを不思議に思う)。[25]
  • 6、「自己」を認識したものにとって、「自己」の支配領域として、「父の国」は現臨している。(3、王国はあなたがたの直中にある。)[26]
  • 7、 はじめのあるところに終わりがある。

 

 

 

 

 

景教碑のシンボルは・・・

いわゆる十字架ではありません。

 

蓮の花の上の光なんです。

 

このトマス側の眞正なる精神的連鎖のシンボルが本来であるならば・・・

 

ローマカトリックの処刑具としての十字架をシンボルとすることが

いかにグロテスクなことかと言うことになりますね😀

 

 

 

 

 

旅を続けましょう・・・