救世主の条件 ⑤ 神の花嫁 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

救世主の条件 ⑤

神の花嫁

 

 

 

 

 

 

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小泉八雲の描いた大社

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 小泉八雲は松江に英語の教師として赴任し、出雲大社への参詣をおこなった。その時の様子を特異な感覚で、見事に描いている。

 

 「『杵築』・・・日本最古の神社・・・」と題する文である。

 

 八雲がはじめて参詣したのは明治二十三(1890)年で、まだ山陰線は開通しておらず、松江から船で宍道湖を渡り、湖西の荘原に上がり、そこから人力車に乗っている。日本人が神社にお参りしても、八雲ほどに喜びと感動をもって神社のことを描けるだろうか。八雲の感性は細部にゆきわたり、対象を的確に捉えている。

 

「神国」のうちで、最も清浄な国は、出雲の国である。

 

出雲人をこの上なく喜ばせ、口にしただけで身がひきしまり、こころが洗われるようである。

 

 出雲のなかでも、杵築はとくに神の都であって、そこにある古い神社こそは、この国の古代信仰である、神道という偉大な宗教が発祥した、本家本元なのである。

 

 八雲は、出雲人以上に出雲のこころを知っており、出雲人の泣きどころを的確に押さえている。

八雲は「いなばや」に宿を取り、その夜のうちに一度提燈に火を入れて、いなばやの主人の案内で参詣する。

 

 わたしは、尋ねた。

「この杵築の大社は、伊勢の神社よりも古いのではございませんか」

「ずっと古うございます」

と宮司は答える。

「ちょっと年代がわからんくらい古うございます、神々だけがおいでのころに、天照大神の御命令によりまして、初めて当大社は建てられたのでございますから。その当時は、社殿もひじょうに宏壮なもので、高さ三十二丈、梁や柱などは、とても今日の木材ではつくれぬくらい大きなもので、骨組などは長さ一千尋の栲の緒でつくりました綱で、しっかりとくくってあったものです」

 

「ちょっと年代がわからんくらい古い」というところが、意味深長である。

八雲は巫女舞を見る。異国人の目が、その舞を分析的に、冷静に捉えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふしぎな音楽がわきおこった。大鼓と竹笛の音である。

楽人が三人、畳の上に坐っているなかに、若い少女がひとり見える。

 

 少女がずっと立ち上がった。素足に雪白の装束をつけたこの少女は、処女の巫女なのである。よくみると、白衣の裾から緋の絹袴がちらちら光っている。巫女は、部屋のまんなかにおいてある、小さな机の前にすすみ出る。机の上には、小さな鈴のついた、なにか木の枝のような形をした奇妙な道具が、ひとふり置いてある。巫女は、この奇妙な道具を両手にとりあげると、神楽舞をはじめた。

 

これは、わたしがかつて見たこともない踊りであった。巫女の一挙一動は、さながら詩である、それは舞いてがすこぶる優雅だからである。が、その舞いの所作は、われわれ西洋人がいうダンスということばなどでは、いかにしても言いあらわすことのできないものだ。むしろ、これはひとつの円のなかを、軽く足早に歩くといった所作である。そして、そういう所作を舞い歩きながら、例の手にささげもった奇妙な道具を、一定の時をおいて打ち振るのである。すると、それについている小さな鈴が、いっせいにちりちりと鳴る。

 

巫女の顔は、美しい面のように、筋ひとつ動かさない、まるで夢見る観音の顔のように、しずかで、美しいのである。その白い素足は大理石にきざんだ水精{ニンフ}の足のように、じつに線がきれいだ。雪白の衣裳と、白いししむらと、おちついたその顔と、この三つのものがあいまって、日本の乙女というよりは、むしろ、生きている彫像のように見える。そうして、巫女が舞っているあいだ、怪しい笛の音がすすり泣き、かきくどき、大鼓が呪文のような低いつぶやきを唱えるのである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八雲は、西洋人ではじめて本殿に上がることを詐された者である。それだけに抑えがたい喜びをもって描いている。八雲の観察は、子供の頃からただ漫然と巫女舞を見ていたわたしたちにとって衝撃であり、驚きである。まったく平凡で取るに足りないと思われていたものが、八雲の目を通すと、途端に生々と生彩を放ってくる。わたしたちが見落としてしまっていたものを、一つ一つ丁寧な手つきで拾い上げて示してくれる。

 

 拝殿では、絶え間なくお神楽があげられ、参詣者が引きもきらず賽銭をあげている。

 たいていの参詣者は小銭を投げるが、なかには、ごく貧しいもので、ひとつかみの米を箱のなかへ投げ入れるものもある。寮銭を投げてから、みな敷居の前でかしわ手を打ち、頭を下げて、拝殿の奥にある一段高い神殿に向かって、うやうやしく目礼をしている。参詣者はみな、そこのところにちょっとしばらく立ち止まって、かしわ手を四つ打つだけなのだが、なにしろ、入れかわり立ちかわり来るもの帰るものが多いから、かしわ手の音がまるで滝の音のようだ。

       (平井呈一訳、『小泉八雲全集』)

 

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夜の巫女舞である

 

これは静かなるミサなのだ

 

明治23年、揺らめく蝋燭の炎の中

 

八雲は見た

 

魂を鷲掴みにされたに違いない

 

 

ひとつの円のなかを、軽く足早に歩くといった所作

 

 

神の姿は見えねども

 

これはイザナギ、イザナミの愛の行為

 

求愛行動

 

求愛の舞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなにやし えをとめを

 

あなにやし えをとこを

 

・・・みとのまぐわいせむ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汚れなき乙女、美しき巫女は神の花嫁なのではないのか?

 

あつき血汐をやわ肌に秘めて舞う

 

夜の神殿で

 

巫女は静かに舞をやめ

 

横たわる

 

闇の中、神とまぐわう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Killing me softly

 

情熱的に受難?

 

卑弥呼?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・一つヒントを

救世主であることは恋をするのと同じ

それは自分でしか分からない

心と体すべてが実感するモノ

 

 

 

 

 

 

 

女性性の目覚め