Qの計画、十字架の国番外編 1、壺の碑編 超古代日本の†の象徴は・・・ | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

Qの計画、十字架の国番外編   

1、壺の碑編  超古代日本の†の象徴は・・・

 

 

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小説「十字架の国」では

 

 

富本銭の文字から

古代国家ヤマトが十字架をシンボルとした

「夲」=「大+†」

であり、富本銭は朝廷により回収され、

その理由は都合の悪い文字があった・・・

 

・・・からなのではないかと推理した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに時代を遡って

大陸側が

『扶桑国、在昔未聞也』

『扶桑国、昔在ったが未だに聞かざる也』

とある扶桑国が

「扶ける(助ける)僧の国」であり

「扶ける(助ける)†(ソウ)の国」であり

「救いの†の国」であり

「救世主の国」

であると推理した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに「扶桑」を略字化すると

「扶桑」=「大+早」=「大+†」=「夲」

 

 

 

 

 

つまり

 

扶桑(夲)はヤマト(夲)だった

 

と結論して小説は終わる。

 

 

つまり縄文時代から飛鳥時代まで

日本は十字架をシンボルとした

「夲(フソウ or ヤマト)だったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字架の国、番外編

 

 

 

『旧唐書』

(十世紀成立)

 

「日本国は、倭国の別種なり。

其の国日辺に在るを以ての故に、

日本を以て名となす。 

 或いは曰く、

倭国自らその名の雅ならざるを悪み、

 改めて日本と為す、と。

 或 いは云ふ、

 日本はもと小国なれども、

 倭国の地を併せたり」

 

日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

 

 

不思議な記述ですね・・・

中世日本には「倭国」と「日本国」があったとは?

894年に遣唐使が廃止されていますから

平安時代中期の情報で書かれているんです。

 

この頃中国では蚕が西国に盗まれて

ヨーロッパでも絹が生産開始

シルクロードが廃れていきます。

遣唐使廃止もやむなし

 

ゆえに10世紀になると「扶桑略記」など

扶桑=日本と表現するようになる

 

なぜでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倭国と日本国が一つになったから?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倭国と扶桑国が一つになったから?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史を遡りましょう

平安初期へ

  蝦夷征討の時代へ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反逆児 アテルイ

阿弖流為

 

奈良時代末期から平安時代初期に活躍した

東北蝦夷(えみし)の族長です。

 

大和朝廷からは坂上田村麻呂が派遣され

 

蝦夷征討

 

しかし蝦夷軍は本当に強かった

騎馬を駆り神出鬼没

(騎馬民族)

数十騎で5万の大軍を翻弄し続けた

マジで一騎当千なんです!

 

 

 

10年以上の戦闘が行われ

戦闘に疲弊した蝦夷勢が和平に応じ

大和朝廷に恭順することとなる。

 

翌年、田村麻呂が蝦夷監視の為の城を造営中

蝦夷族長のアテルイと副長のモレが投降してきた。

 

アテルイは自分が死ぬことによって

この戦に完全な終止符を打ち

蝦夷一族が遺恨なく朝廷に守護されるよう

自らの命を差し出したのです。

女、子供を守るために

・・・キリスト教に似ていませんか?

 

たった一人で全員の命を贖った?

 

 

 

 

 

一騎当千だが戦わない民族

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まさしく愛瀰詩魂です。

典型的な日本人魂です。

 

 

 

 

 

 

 

長年の強敵に友情を感じていた田村麻呂は

朝廷にアテルイの助命を嘆願しますが

(田村麻呂はおそらく命懸けで嘆願したと思います)

朝廷は聞き入れずアテルイを処刑してしまいました。

非常に残酷なやり方で

 

 

愛瀰詩の悲しい物語なんです。

 

 

 

 

 

 

青森のねぶた祭りは

そんな優しい田村麻呂を担ぐ祭りなんです

アテルイは朝廷に見張られて担げないから

鬼として担ぐんです

勇者アテルイと田村麻呂を担ぐんです

愛瀰詩はどちらも愛せるんです

 

日本全国の不思議な祭りには

必ず隠されているモノがあるんです

それを見つけてあげてください

 

 

ねぶたの由来

青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。

奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。

初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。

「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。

 

・・・『「七夕祭」であったのでしょう』・・・

武将と鬼の戦いがモチーフなのに七夕祭りは無いでしょう。

坂上田村麻呂と東北蝦夷の戦いしかありません。

 

悲しい鬼退治の物語・・・

 

退治された鬼が自分たちの祖先であり、英雄であった

複雑な鎮魂の祭り

こうでなければ生き延びれなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は私、この坂上田村麻呂の子孫と

友人関係になったことがあります。

 

彼曰く、実は先祖は江戸時代に絵師でして、

その昔は坂上田村麻呂なんです。

 

身長198センチで110kg

円板投げの国体選手だった彼は

その大きな体を屈ませて私に耳打ちしました。

京都弁の非常に穏やかな優しい声

彼はベンチャー企業の社長であり

1998年当時に3Dプリンターの開発研究をしていました。

人格が遺伝する証明です。

性格は骨格に表れ

骨格は性格に表れる

 

威風堂々とした彼を見て、

田村麻呂がアテルイを救おうとしたことが

私の中で、歴史から確信に変わりました。

 

彼からは蘇民将来の茅の輪とか

祇園祭の絵葉書などたくさん頂きました。

当時私の乗っていたホンダのプレリュードの助手席で

彼の頭が天井にぶち当たっていました

狭いですね・・・この車・・・

大きくて可愛い人でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さてアテルイです。

 

やあ、みんな元気?

元気があれば〜なんでも出来る!

 

 

 

 

 

日本紀略では「大墓公阿弖利爲」とあります。

「たぼノきみ アテイ」と読みます。

細かい点は気にしません^^)

公は王族です。

であれば「大墓」は王国名か地名でしょう。

 

この「大墓公」の「大墓」

大きな墓ですね。

不吉な名前ですね。

この「大墓」という字を分解します。

 

 

 

=「大」

=「墓」

 

 

となります。

ここに「日本」が現れます。

「夲」もあります。

歴史の不思議です

 

字義を追えば

 

大いなる

艸=くさ=民くさ

公(王)

 

日本略記の筆者の思いを・・・

支配階級に焚書されない工夫を・・・

今、あなたは受け取りましたか?

 

卓越した知識と機知で

このように真実を隠し、伝えるのです

 

 

 

 

 

 

 

・・・東北愛瀰詩の国が日本だった

 

全国にいた愛瀰詩は大和朝廷によって征伐され

恭順し、または俘囚となって東北地方に逃げ込んだ

 

東北の人は異人でしょうか?

髪も目の色も肌も言葉も

全く同じですよね。

 

そりゃそうですよ

日本全国に縄文愛瀰詩が住んでいたのですから

 

701年の大宝律令以降

反抗を始めた縄文愛瀰詩なのですから

あなたも私も縄文愛瀰詩の血なんです。

 

 

 

 

万世一系とか

公地公民、班田収授法とか

貴族の天下りのお寺宗教とか

 

押し付けられてたまったもんじゃないっ!

そりゃ、反抗するでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

それらがもしもなかったら・・・

 

征伐に来る朝廷もなく

土地の所有権も税もなく

支配階級の葬式仏教などなかったら

 

どんなにか平和な国が続いたことか・・・

想像できますか?

 

 

 

 

 

 

 

出雲地方に青森のズーズー弁を話す村が

かつてあったそうですよ、不思議ですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アテルイがアテルだったら?

「阿毎多利思比孤」

ヤマトの大玉(おおきみ)の固定名だったとしたら

どっちが扶桑でどっちがヤマト(夲)なんだ?

どっちも東北か?

 

大和朝廷は嘘だったのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに不思議な伝承があります

 

 

 

 

 

「つぼのいしぶみ」

 

 

 

 

 

「壺の碑」とも書き

「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」

ということをテーマに

数多くの人がこの碑のことを詠ったため、

有名な石であったが、どこにあるか不明であった

 

 

 

 

 

 

 

 

松尾芭蕉も探し求めた

伝説の石碑

 

 

 

 

伝承では坂上田村麻呂が

蝦夷平定を記念し

大石に弓の矢筈で

「日本中央」

・・・と記したということです。

 

ねぶた祭りの祈りを思えば

田村麻呂は

朝廷に疑われないように

アテルイの遺骨と共に

隠密行動で青森に訪れ、

千曳神社を建立して、

丁重に勇者を鎮魂し、

日本国を讃えたのだ

征服者ならば「大和末端」と刻むはず

見窄らしく刻んだ文字も致し方無し

立派なものにはできなかった

そして碑は隠された

 

・・・愛瀰詩は田村麻呂を愛した

 

 

坂上田村麻呂家はもともと大忌寸の姓であり

秦氏と同じ東漢氏、帰化人の末裔であった

ゆえに疎外感や差別感に敏感だったのだ

先代は忌寸の卑字を嫌い

朝廷に願い出て宿禰の姓に変えてもらっている

 

忌寸の姓とは天武天皇の定めた八色の姓であり

飛鳥時代は卑字では無かった

後の世に卑字となり、秦氏も没落していったのだ

 

東漢(ヤマトのアヤ)氏で判るように東がヤマトだったのだ

ならば大和朝廷とはどこから盗んだ国名なのか?

 

 

 

12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。

いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。

但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、

石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。

信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。

其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。

wikipedia

 

 

芭蕉は奥の細道を旅して

仙台の多賀城跡にある石碑に辿り着きました。

 

「泪(なみだ)も落つるばかり也」

 

感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。

 

 

むかしより、よみ置ける歌枕、

多くかたり伝ふといへども、

山崩れ、川流れて、道あらたまり、

石は埋もれて土にかくれ、

木は老いて若木に変れば、

時移り、代変じて、

その跡たしかならぬ事のみ。

ここに至りて、

うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)

今眼前に、古人の心を閲(けみ)す。

行脚の一徳、存命の悦び、

羈旅の労を忘れて、

泪も落つるばかりなり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お分かりでしょうか?

 

記念(かたみ)=形見

形見=死んだ人を思い出す品物

 

いにしえの人の心を検見す

 

 

なぜ芭蕉はこれほどまでに感動しているのでしょう?

なぜ多くの歌聖たちがつぼのいしぶみを枕詞にするほど

愛するのでしょうか?

 

彼らが愛瀰詩の子孫なれば・・・

アテルイの悲話に涙するならば・・・

 

彼の形見を伝承するには・・・

 

 

 

 

 

・・・愛に満ちた和歌にして残す・・・

 

 

 

愛瀰詩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、多賀城碑はつぼのいしぶみではありませんでした。

田村麻呂よりも前の時代の石碑でした。

 

「どこにあるか分からない」

 

旅を続けましょう・・・