人間到るところ青山あり
オーソドックスな解釈は
まず、人間。
人間とは世の中のこと。
そして青山。
青山とは墓場のこと。
どこへ行っても死に場所くらいはあるものだから、
思い切って新天地でがんばろう!
というような、
まあ、アグレッシブな、攻め攻めの
自己叱咤激励的な解釈をされています。
が、
またしても
玄侑宗久さんの、禅的解釈がおもしろく、救われます。
現在は、あくまで何か夢や目標を達成するための途中であり、
今していることは将来のため。
というのは、
今は報われない(笑)考え方ともいえます。
え。
なんだか後向きな発言?
そうともいえないのです。
◇◇
今の努力や我慢が、いつかは実を結ぶ。
と多くの人が思っているが、
(中略)
悠久の時間のなかでは因果応報だとしても、
因に見合った結果が自分の生きているうちに、
しかも自分に分かるように目の前で起こるとは限らない。
いや、ほとんどそんなことはあり得ないと考えたほうが賢明だろう。
(中略)
禅は、だから今の行動の結果を将来に期待せず、
結果も 「今」 のなかから受け取ってしまおうと考える。
これが白隠禅師のいう 「因果一如」
また道元禅師のいう 「修証一等」 である。
(中略)
「今、ここ」 が、将来の果報を待たずに完結するためには、
我々は 「今、ここ」 を存分に楽しまなくてはならない。
それが 「今、ここ」 から受け取る 「果」 なのである。
他人に頼んでは片づかないこと、たとえばトイレや食事などは、
楽しむべき典型的な事柄だろう。
楽しむというのを誤解されると困るのだが、
それは 「遊戯三昧」 (ゆうげんざんまい) ということだ。
それでもトイレで遊戯とは何事かと、また誤解されるかもしれないが、
「遊戯三昧」 とか 「楽しむ」 というのは、
つまりそのことに 「没頭する」 ことだ。
(中略)
「今、ここ」 に浸りきり、それを充分に楽しめていれば、
当然ながら 「いつ死んでもいい」 という覚悟ができる。
果報を期待するからこそ 「死んでも死にきれない」のだ。
そこから標題の言葉に繋がる。
「青山」 とは、死んでもいいと思える場所のことだ。
果報を期待せず、 「今、ここ」 を生ききっていれば、いつどこで死んだって
そこが青山になるというのである。
(中略)
このようになりたい、
という自己を設定し、それに向かってまっしぐらに進むのが理想的な人生だと思っている人は面食らうかもしれないが、
そういう人生を送っていると、途中では死ねないことになる。
そして目標にしていた自己がある程度実現すると、
目標そのものが上方修正されるから、
我々は常に途中にしかいられなくなる。
それじゃあ青山なんて、どこにもなくなってしまうのだ。
「人間到るいたるところ青山あり」
というのは、自己実現する人生ではなくて、
「応じる」 人生の勧めだ。
観音様のように、
無限に変化することさえ楽しみながら、
三千種類の自己それぞれに没頭できれば、そこに青山はある。
そんな生き方ができたら、
なにをしながら死のうと、
どこで死のうと、
なにの病気で死のうと、いいじゃないか。
学生時代ならばともかくも、実現すべき自己なんてものを
いつまでもぶら下げているのは不自由の極み。
まして死は、こんなふうに実現したいなんて力むものじゃない。