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リレーティング

愛についてのOSHOの講話をセラピストVIJAY(辻本ひさし)が紹介し
ます。またエッセンシャルライフコンサルティングや瞑想・セラピーからの人間関係に役立つ知恵も紹介。

生がそうであるように……私は愛を三つの部分に分ける、朝食、昼食、夕食。子どもの頃は朝食の時だ。そして、たまたま今日、朝食を食べさせてもらえ なかったら、昼食時にはとても、とても空腹になるだろう、必要以上に。そして昼食も食べそこねたら、そのときはもちろん、夕食時には狂わんばかりになるだ ろう。愛は食べ物だ――だからこそ、私は生を三つに分ける、朝食、昼食、夕食。

 

愛は食べ物だ、魂にとっての食べ物。子どもが初めて母親の 乳房を吸うとき、彼はふたつのものを吸っている、ミルクだけではない。ミルクは彼の体に入っていき、愛は彼の魂に入っていく。愛は目には見えない、まさに 魂が目には見えないように。ミルクは、まさに体が目に見えるように、目に見える。もしあなたに見る眼があれば、母親の乳房から子どもの存在に、ふたつのも のが同時に注ぎ込まれているのがわかる。ミルクはまさに愛の目に見える部分、愛はミルクの目には見えない部分――暖かみ、愛、慈愛、恵みなのだ。

 

もし子どもが朝食を逃していたら、そうだとしたら、若者になると愛にひどく飢えてしまうだろう……そして、それが問題を生む。そうなると、彼は愛を待ちき れなくなる……それが問題を生む。そして、彼はひじょうに焦って愛を求める……愛はとてもゆっくりと育つから、それが問題を生むのだ。それには忍耐が必要 だ。そして、急げば急ぐほど、逃す可能性が高くなる。

 

それを自分自身や他の人たちに見たことはないかね? 愛の必要性が度を越している人 たちは、かならず苦しむ。なぜなら、彼らはつねに、誰も自分を満たしてくれないと感じているからだ。事実、誰も、改めて彼らの母親になろうとはしない。母 子の関係では、子どもに求められるものは何もなかった。子どもに何ができるかね? 彼は無力なのだ。何ひとつ返せない。せいぜい笑うことができるだけ、た だそれだけだ。あるいは、母親の行く先を目で追う、それしかできない。ちょっとした、美しい仕草だが、他のことは何もできない。母親は与えるしかない、子 どもは受け取るしかない。

 

もし朝食時にこれを逃していたら、あなたは自分の母親になってくれる女性を探し求めことになるだろう。さて、女 性が探しているのは恋人であって、息子ではない。そこには当然、問題が生じる。たまたま、偶然にでも、息子を探している女性を誰か見つけることができれ ば、話は別だ。それならば、ものごとはまとまる、それなら、ふたつの病がかみ合う。

 

いつも起こることだが、悲観的な人は自分にぴったりの 楽観的な人をかならず見つける。サディストは、自分にぴったりのマゾヒストをかならず見つける。高圧的な人は、支配されることを必要としている人をかなら ず見つける。それなら、彼らはうまが合う。ふたりのマゾヒストがいっしょに暮しているのは見かけない、絶対に。私は何千ものカップルを見てきた。これま で、パートナーが両方ともサディストか、あるいはパートナーが両方ともサディストだというカップルには一度も出会えたことがない。いっしょに暮らすのは不 可能だ。彼らはかみ合わなければならない。反対の人たちだけがうまが合う。だから、人びとはつねに反対の人と恋に落ちる。

 もし息子を探している女性に出会えたとして……それもまた醜悪だ、それもまた病的だ。なぜなら、女性は本来、恋人を探していて当然だからだ、子 どもではなく。そして、これが問題であり、問題はますます複雑になっていく――たとえ彼女は息子を探しているにしても、彼女はそれに気づいていない。そし て、たとえあなたは母親を探していても、そのことに気づいていない。事実、女性が母親のようにあなたの面倒をみようとすると、あなたは傷つく。あなたは言 うだろう、「何をするんだ? 私が子どもだとでも?」。ところが、あなたは母親を探しているのだ。何千、何百万もの人びとが母親を探している。

 

男性が女性の乳房にこれほど興味を示しているように見えるのは、そのためだ。さもなければ、女性の乳房にこれほど興味を抱く必要はない。その興味は、子ど もの頃、朝食時に、あなたが何かを逃していたことを示しているにすぎない。それが続いている。それがあなたのマインドの上を舞っている、あなたに付きま とっている。乳房は朝食時のためにある。いまだに、なぜあなたは思いつづけ、描きつづけるのか?

 奥深く、よく見てごらん。というのも、それはあなたの責任ではないからだ、あなたとは何の関係もない。今となっては、自分の母親を変えることはできない。それはそのように起こってしまったのだ。だが、あなたは自覚することはできる。 内側のこうしたことすべてを自覚することはできる。そして、自覚することで、奇跡が起こる。もしあなたがこれらのことを自覚するようになったら、それらは 落ちはじめる。それらは深い無意識の中でしか、あなたにつきまとうことができない。深い自覚が変容する力になりはじめる。

 

だから、ただ自 覚するようになりなさい! もしあなたが愛に対して何か子どもじみた態度を取っているのであれば、自覚し、見つけ出し、深く探りなさい。すると、自覚する ようになるだけで、それらは落ちる。だから、他には何も必要ない。まずは自覚するようになり、それから、「今度は何をしたらいいのか?」と問わなければな らないということではない。あなたが自覚するようになる瞬間に、それらは消える。なぜなら、自覚することで、あなたは大人になっていくからだ。

 

子どもは自覚していない。子どもは深い無意識状態で生きている。自覚するようになることで、あなたは大人になり、成熟していく。だから、無意識の中でまと わりついていたものが、すべて消える。ちょうど部屋に光を持ちこめば闇が消えるように――あなたのハートの奥深くに自覚を持ちこむがいい。
 

次に、昼食をも逃す人たちがいる。そうなると、彼らは晩年には、いわゆる「変態じじい」になる。そうなったら、晩年になって彼らは、絶えずセッ クスのことしか考えないようになる。彼らは直接的にセックスのことを話したりはしないだろう――セックスに反対する話をはじめるかもしれない――だが、 セックスのことを話す。反対しているにしても、違いはない。

 

インドのいわゆる聖者たちのところに行って話を聴くと、彼らがいつもセックス に反対する話をして、ブラフマチャリアをたたえてばかりいることがわかるだろう。この人たちは自分の昼食すら逃した。もう、夕食の時間になっている……そ して、彼らはおかしなことになっている。さあ、彼らは、今にも死がやって来ようとしているのを知っている。そして、死が近づいていて、時間が彼らの手から 消えていくとき、彼らがノイローゼになるとしても、自然なことに思える。


 このノイローゼにかかった人たちのことは古い経典に出てくる。彼 らが瞑想していると、アプサラ――天国からの美しい女性たち――が、降りてくるというのだ。裸で、彼女たちは彼らの周りで踊る。なぜ彼女たちがそんなこと をしなければいけないのか? ヒマラヤの山中で瞑想しながら坐っている年寄りのことを、誰がかまってくれるかね? 誰が気にする? 彼は死んだも同然なの だ――誰も気にしないだろう? この天国からのアプサラたち、彼女たちはもっといい人を見つけることができる。事実、アプサラを追いかけている人は山ほど いる。リシ――このいわゆる聖者たちを追いかける暇など、彼女たちにはあるはずがないだろう? いや、それはアプサラや天国や何やかやとはいっさい関係な い。それは、この人たちが朝食と昼食の両方を逃したということにすぎない。そして夕食の頃までには、彼らの想像力が彼らとすばらしいゲームをしていること になる。それは彼らの空想、飢えにかられた空想なのだ。

 

ひとつのことをやってみるといい。三週間、ただ断食を続ける。すると、あらゆると ころに食べ物が見えはじめるだろう……あらゆるところに! 空へとかけ昇る満月を見てすら、パン、チャパティのようだとあなたは言うだろう。それは、その ようにして起こる。あなたは投影しはじめる、あなたの想像力があなたとゲームをしているのだ。

 

もしこうなってしまったら、そうだとした ら、慈愛はけっしてわいてこない。ゆっくり進むがいい、油断せず、よく見ながら、愛をこめて。あなたがセックスをしたくなっても、私はセックスを落としな さいとは言わない。私が言っているのは、それが愛になることができるように、それをもっと油断のないものにしなさい、それをもっと祈りに満ちたものにしな さい、もっと深みのあるものにしなさい、ということだ。もしあなたが愛にあふれていたら、そのときは、それをさらにもっと感謝に満ちたものにしなさい。そ れが慈愛になることができるように、もっと深い感謝を、喜びを、祝祭を、祈りをそれに持ち込むがいい、それに瞑想を持ち込みなさい。

 

慈愛があなたに起こっていないかぎり、自分は正しく生きたとか、生きているとか、いっさい思わないことだ。慈愛が開花だ。そして、慈愛がひとりの人に起こると、何百万もの人たちが癒される。彼の周りに来る人たちは、誰でも癒される。慈愛には癒す力がある。

 

A Sudden Clash of Thunder, #8 より抜粋

あなたは以前、「癒す力があるのは慈愛だけだ」とおっしゃいました。慈愛について話していただけますか。

 


そう、癒す力があるのは慈愛だけだ――なぜなら、人間の中で病んでいるものはすべて、愛が欠けていることに原因があるからだ。人間の中でおかしくなってい るものはすべて、どこかで愛と関連がある。彼は愛することができないままきてしまったか、あるいは、愛を受け取ることができないままきてしまった。自分の 存在を分かち合うことができずにいる。それが惨めさだ。それが、内面にあらゆる類のコンプレックスを生みだす。

 

内面のこれらの傷は、多く の形で表面化しかねない。それらは体の病になりうる、心の病になりうる――だが、深いところで、人間は愛が欠けているために苦しんでいる。体には食べ物が 必要なのとまったく同じように、魂には愛が必要だ。体は食べ物がなければ生き延びることができない。そして魂は、愛がなければ生き延びることができない。 実際には、愛がなければ、魂はけっして生まれない――生き延びることなど問題外だ。

 

あなたは自分には魂があると思い込んでいるだけだ。死の恐怖ゆえに、自分には魂があると信じている。だが、愛したことがない限り、あなたは知ってはいないのだ。愛の中でのみ、自分は体以上のものだ、マインド以上のものだと感じるようになる。

 

慈愛には癒す力があると私が言うのは、そのためだ。慈愛とはいったい何なのか? 慈愛とは、愛のもっとも純粋な形だ。セックスは愛の最低の形、慈愛は愛の 最高の形だ。セックスでは、触れ合うのは基本的に体の部分だ。慈愛では、触れ合うのは基本的にスピリチュアルな部分だ。愛では、慈愛とセックスの両方が混 じり合っている、身体的なものとスピリチュアルなものの両方が混じり合っている。愛はセックスと慈愛の中間点なのだ。

 

慈愛を祈りと呼んでもいい。慈愛を瞑想と呼んでもいい。エネルギーの最高の形が慈愛だ。「コンパッション(慈愛)」という言葉は美しい、その半分は「パッション(情熱)」――どのようにしてか、情熱がもはや情熱ではないかのように純化している。それは慈愛になった。

 

セックスで、あなたは相手を利用する。相手を手段に貶める。相手を物に貶める。性的関係であなたが罪悪感を抱くのは、そのためだ。そのやましさは宗教の教 えとはまったく関係ない。そのやましさは宗教の教えよりも深い。性的関係そのものにあなたは罪悪感を抱く。罪悪感を抱くのは、あなたが人間を物に、使い捨 てにする日用品に貶めているからだ。

 

セックスで、ある種の束縛を感じるのもそのためだ。あなたもまた物に貶められている。そして、あなた が物であるとき、あなたの自由はなくなる。あなたの自由があるのは、あなたが人であってこそだからだ。人であればあるほど、自由は大きい。物であればあれ ばあるほど、自由は少ない。あなたの部屋の家具には自由はない。鍵をかけて部屋から出て、何年後かに戻ってきても、家具は同じ場所に、同じようにあるだろ う。それが自分で自分を新たに配置換えすることはない。その自由はない。だが、もしあなたが部屋にひとりの人間を残して置いてきたら、同じ人を目にするこ とはないだろう――翌日であったとしても、次の瞬間であったとしても。同じ人を再び目にすることはない。

 

その昔、ヘラクレイトスは言って いる――同じ川に二度と足を踏み入れることはできない。同じ人に再び出会うことはあり得ない。同じ人に二度出会うことは不可能だ。なぜなら、人間は川だか らだ、絶えず流れている。これからどうなるのか、けっしてわからない。未来は開かれたままだ。物にとっては、未来は閉ざされている。岩は岩のまま、岩のま ま。それには成長するための潜在力がない。変われない、進化できない。人間はけっして同じままではない。後戻りするかもしれない、先に進むかもしれない、 地獄か天国に行くかもしれない、だが、けっして同じままではないだろう。あちらこちらと、動きつづける。

 

誰かと性的関係をもつと、あなた はその誰かを物に貶めたのだ。そして、彼を貶めることで、あなたは自分をも物に貶めている。なぜなら、それは妥協し合うことだからだ。つまり、「私は、あ なたが私を物に貶めるのを許す。あなたは、私があなたを物に貶めるのを許す。私はあなたが私を利用するのを許し、あなたは私があなたを利用するのを許す。 私たちは利用し合う。私たちはふたりとも物になる」

 

だから……ふたりの恋人をよく見てごらん。まだ彼らが身を固めていないとき、ロマンス は依然として生きている。蜜月は終わっていないし、ふたりは生命に満ち、輝いていて、いまにも爆発しそうだ――未知なるものを爆発させんばかりだ。そして 次に、結婚したカップル、夫と妻をよく見てごらん。すると、ふたつの死物が見えるだろう、ふたつの墓が並び合っている――お互いが死んだままでいることを 手助けし、お互いに死んだままでいることを強いている。それが結婚の絶えざる葛藤だ。誰も物には貶められたくない!

 

セックスは、そのエネ ルギー“X”の最低の形だ。もしあなたが信心深ければ、それを「神」と呼んでもいい。もし科学的であれば、“X”と呼べばいい。このエネルギー、Xは、愛 になることができる。それが愛になると、そのときには、あなたは相手の人に敬意を払うようになる。たしかに、あなたはときには相手を利用することもある、 だが、あなたはそのことに感謝を感じる。あなたは物に対しては、けっして「ありがとう」とは言わない。ある女性を愛していて、彼女と愛を交わせば、あなた は「ありがとう」と言う。

 

あなたは妻と愛を交わして、「ありがとう」と言ったことが一度でもあるかね? いや、それは当たり前のことだと あなたは思う。妻はあなたに、「ありがとう」と言ったことが一度でもあるかね? おそらく、何年も前、まだあなたがたが決めかねていて、試し、つき合い、 口説き合っていた頃なら、思い当たることもあるだろう――おそらく。だが、いったんあなたがたが身を固めてしまってから、彼女が何かに対して、あなたに 「ありがとう」と言ったことがあるだろうか? あなたは彼女のためにとても多くのことをやっている、彼女はあなたのためにとても多くのことをしてくれてい る、あなたがたはふたりとも互いのために生きているが、感謝の気持ちは消えてしまった。

 

愛には感謝がある、深い感謝の気持ちがある。相手 は物ではないことを、あなたは知っている。相手には気高さ、性格、魂、そして個性があることを、あなたは知っている。愛では、あなたは相手に完全な自由を 与える。もちろん、あなたは与えて、受け取る。それはギブ・アンド・テイクの関係だ……だが、敬意を伴う。

 

セックスでは、それは敬意を伴 わないギブ・アンド・テイクの関係だ。慈愛では、あなたはただ与える。何か見返りを得ようという考えは、あなたのマインドのどこにもない、あなたはただ分 かち合う。何も報われないということではない! それは百万倍にもなって戻ってくる。だが、それはたんにおまけとして、自然の成り行きとしてだ。それを強 く求めるようなことはない。

 

愛では、何かを与えても、深いところでは、戻ってきて当然だと期待しつづける。もしそれが戻ってこなければ、 不満に感じる。口には出さないだろうが、自分には文句があることを、自分は騙されたと感じていることを、千とひとつのやり方でほのめかしかねない。愛は微 妙な取引のようのようなものなのかもしれない。

 

慈愛では、あなたはただ与えるだけだ。愛では、あなたは感謝するが、それは相手が自分に何 かを与えてくれたからだ。慈愛では、あなたは感謝するが、それは相手があなたから何かを受け取ってくれたからだ。相手があなたを拒絶しなかったから、あな たは感謝する。あなたは与えるエネルギーを持って来ていた、分かち合う多くの花を持って来ていた、そして、相手はあなたを許してくれた、相手は受け容れて くれた。あなたが感謝するのは、相手が受け容れてくれたからだ。

 

慈愛は愛の最高の形だ。多くのものが戻ってくる――百万倍にもなって、と 言ってもかまわない――だが、それがポイントなのではない、あなたはそれを強く求めてはいない。たとえ戻ってこなくても、そのことに不満はない。もし戻っ てくれば、あなたはただ驚く! もし戻ってくるのなら、信じがたい。戻ってこなくても、問題ない――あなたは何かの取引で自分のハートを誰かにあげたわけ ではけっしてない。あなたは持っているから、ただ降り注ぐしかない。あなたにはありすぎるから、もし降り注がなければ、重荷になる。雨水でいっぱいの雲は 降り注がなければならないのとよく似ている。いつか、雲が雨を降らせていたら、静かに見守ってごらん。すると、いつも聞こえてくるだろう。雲が雨を降ら せ、大地が吸い取ったとき、雲が大地に「ありがとう」と言っているのが、いつも聞こえてくるだろう。大地は雲が重荷を降ろす手助けをしたのだ。

 

花は咲くと、その芳香を風と分かち合わなければならない。それは自然なことだ! それは取引ではない、商売ではない。ただ自然なことなのだ! その花は芳 香に満ちている――どうするかね? 花が芳香を自分のうちにとどめておけば、花はとても、とても張りつめた感じになる、深い苦悶にさいなまれる。生におけ る最大の苦悶は、表現できないとき、伝えることができないとき、分かち合えないときにある。もっとも貧しい人とは、分かち合うものが何もない人、あるい は、分かち合うものが何かあっても、それをどう分かち合えばいいのか、その能力を、そのすべを失ってしまった人のことだ。そうだとしたら、人は貧しい。

 

性的な人は、ひじょうに貧しい。愛のある人は、比較的豊かだ。慈愛の人は、もっとも豊かだ。彼は世界の頂点にいる。彼には制限がない、限界がない。彼はた だ与えて、自分の道を歩みつづける。あなたが「ありがとう」と言うのを待つことすらしない。途方もない愛をもって、彼は自分のエネルギーを分かち合う。癒 す力があると私が言っているのは、このことだ。

 

仏陀はよく弟子たちに言っていた、「瞑想した後は、いつも慈愛の心をもちなさい――ただち に――なぜなら、瞑想をすると愛が育ち、ハートがいっぱいになるからだ。瞑想の後はそのつど、全世界に対して慈愛を感じなさい。自分の愛を分かち合い、エ ネルギーを大気中に解き放ち、そのエネルギーを他の人たちに使ってもらうために」


 私もまた、それをあなたがたに言いたい。それぞれの瞑想 の後、祝っているときに、慈愛をもつがいい。自分のエネルギーは、人びとを、彼らの必要に応じて助けることになるのだと感じてごらん。ただ、それを解き放 つがいい! あなたは重荷が降りるだろう、とてもリラックスした感じがするだろう、とても穏やかで静かな感じがするだろう、そして、あなたが解き放ったバ イブレーションが、多くを助ける。つねに瞑想を慈愛で締めくくりなさい。

 

そして、慈愛は無条件だ。自分に親しくしてくれる人たちだけに、 自分と関わりのある人たちだけに慈愛を抱くということはできない。慈愛はすべてを含む……本来、総括的なものだ。だから、もしあなたが隣人に慈愛を感じる ことができなければ、そのときは瞑想のことはすべて忘れなさい。なぜなら、それは特定の誰かとはいっさい関係がないからだ。それはあなたの内面の状態と関 係がある。慈愛となるがいい! 条件を付けずに、向かう方向もなく、宛先もなく。そうなれば、あなたはこの悲惨な世界への癒す力になる。

Osho, A Sudden Clash of Thunder , #8 より抜粋

ふたりの人が、離れていて不幸せだったら、いっしょになればいっそうの不幸せをお互いのためにつくりだす。それは計算どおりになる。あなたは不幸せ だったし、あなたの妻も不幸せだったのに、いっしょになってふたりは幸せになれると、ふたりとも期待しているのだろうか? これは……これは二足す二は四 のように、ごく当たり前の算術だ。それほど単純なことだ。それは高等数学のようなものではない。まったく当たり前のこと、指折り数えられるものだ。あなた 方はふたりとも不幸せになる。

 

結婚を前提にした恋愛がある。そうした恋愛を当てにしないこと。じつのところ、結婚する前に、そうした恋愛 から抜け出すがいい。結婚はハネムーン、蜜月期間の前ではなく、その後に起こるべきだ、というのが私の持論だ。すべてが整ったときにのみ、そのときに初め て結婚がなされるべきだ。

 

結婚後のハネムーンはとても危険だ。私の知るかぎり、99パーセントの結婚はハネムーンが終わるころには終わっ ている。だが、そのときにはあなた方は捕まっている、もはや逃げ出すすべがない。そうなると、あなたが妻を捨てようものなら、妻があなたを捨てようものな ら、社会全体、法律、裁判所、あらゆる人があなた方に対立する。そのときには、すべての道徳、宗教、聖職者たち、あらゆる人があなた方に対立する。本当の ところ、社会は結婚へのあらゆるバリヤーを設けるべきであり、離婚にはいっさいバリヤーを設けるべきではない。社会は人びとにこれほど簡単に結婚を許すべ きではない。裁判所はバリヤーを設けるべきだ――その女性と少なくとも二年はいっしょに暮らし、そうして初めて裁判所はあなた方に結婚を許可する。

 

現時点では、彼らはその逆をやっている。あなたが結婚したがると、あなたに準備ができているか、それはたんなる気まぐれで、その女性の鼻の形が気に入った にすぎないのか、だれも問いただしはしない。なんとばかげたことか! 形のよい鼻だけで生きていくことはできない。二日もしたら鼻のことなど忘れてしま う。妻の鼻などだれが眺めるだろう? 妻が美しく見えることはない、夫が美しく見えることはない。いったん慣れてしまうと、美しさは消えてしまう。

 

ふたりの人がお互いに打ち解けて、慣れ親しむようになるまで、十分に長いあいだいっしょに暮らすことを許されるべきだ。たとえふたりが結婚を望んでいて も、それは許されるべきではない。そうしたら世界から離婚は消えてなくなるだろう。離婚が存在するのは、結婚が間違ったもの、強いられたものだからだ。離 婚が存在するのは、結婚がロマンチックな雰囲気のなかで行われるからだ。

 

あなたが詩人ならロマンチックな雰囲気もいいだろう…それに詩人 たちは良き夫や良き妻としては知られていない。じつのところ、詩人はほとんどつねに独身者だ。彼らは遊び半分のつきあいはしても、けっして捕まらないか ら、そのロマンスは生きたままだ。彼らは詩を、美しい詩を書きつらねる。人は詩的な雰囲気のなかで女性や男性と結婚するべきではない。散文的な雰囲気が やってきて、そこに落ち着くのを待ちなさい。なぜなら、日々の生活は詩的というより散文的だからだ。人は十分に成熟しなければならない。

 

成熟とは、人はもはやロマンチックな愚か者ではないということだ。人は人生を理解し、人生の責任を理解し、他人といっしょに暮らすことの問題を理解してい る。いっさいのこうした困難を受け容れて、それでもその人と暮らすことを決意する。薔薇が咲き乱れる、天国のような暮らしだけを期待してはいない。ナンセ ンスを期待してはいない。現実が厳しいことを知っている。それは荒々しいものだ。薔薇も咲くだろうが、それはめったにないことだ。棘はいくらでもあるが。

 

こうしたすべての問題に気がつくようになり、それでもリスクを冒して、ひとりでいるよりもその人といっしょにいることを選ぶのなら、結婚するがいい。そう なれば結婚が愛を殺すことはない、なぜなら、この愛は現実的なものだからだ。結婚はロマンチックな愛しか殺せない。そしてロマンチックな愛とは人びとが幼 い恋と呼ぶものだ。それを当てにすべきではない。それを滋養があるものと考えるべきではない。それはアイスクリームのようなものかもしれない。たまに食べ るのはいいが、それは当てにすべきものではない。人生はもっと現実的なもの、もっと散文的なものであるはずだ。

 

結婚そのものがなにかを壊 すわけではない。結婚はあなたのなかに隠れていたものを持ち出すにすぎない。それは持ち出す。愛があなたの背後に、あなたのなかに隠れていたら、結婚はそ れを持ち出す。愛が見かけだけのもの、餌にすぎなかったら、遅かれ早かれ、それは消えてしまうしかない。そしてあなたのリアリティ、あなたの醜い人格が表 面に表れてくる。結婚はたんに機会にすぎず、あなたが持ち出さざるをえないものが外に出てくる。

 

愛は結婚によって破壊される、と私は言っ ていない。愛は愛し方を知らない人たちによって破壊される。愛が破壊されるのは、最初から愛がないからだ。あなたは夢のなかに生きている。現実がその夢を 破壊する。そうでなければ愛は永遠のもの、永遠の一部だ。あなたが成長すれば、あなたがそのわざを身につけ、そして愛の生活のリアリティを受け容れるな ら、それは日々成長していく。結婚は愛のなかへ成長していくこの上もない機会となる。

 

なにものも愛を破壊できない。愛があるなら、それは 成長しつづける。だが、私の感じでは、愛は最初からそこにない。あなた方は自分を誤解していた。なにか別のものがそこにあった。たぶんセックスがあった、 性的な魅力があった。だとすれば、それはやがて破壊されてしまう、というのも、一度でも女性を愛してしまえば、その性的魅力は消えてしまうからだ、なぜな ら、性的魅力は未知ゆえのものだからだ。その女性または男性の肉体を一度でも味わってしまえば、性的魅力は消えてしまう。あなたの愛が性的魅力にすぎない なら、それはいずれ消えるしかない。だから、愛とほかのものを取り違えないこと。愛がほんとうの愛なら……。

 

「ほんとうの愛」という言葉 で、私はなにを言おうとしているのか? 私が言いたいのは、相手がそこにいるだけで、あなたは急に幸せになり、いっしょにいるだけで、エクスタシーを感 じ、相手が目の前にいるだけで、ハートが奥深くまで満たされる……ハートのなにかが歌いだし、あなたは調和に落ちる。相手がそこにいるだけで、あなたは一 体感をおぼえる。もっと個人になり、もっと中心が据わり、もっと大地に根づく。そうなるのなら、それは愛だ。

 

愛は情熱ではない、愛は感情ではない。愛とは、どこかのだれかがあなたを完全なものにしてくれるという、とても深い理解だ。たれかがあなたを完全な円にしてくれる。相手の存在があなたの存在を高める。愛はあなた自身でいる自由をもたらす。それは所有欲ではない。

 

だから、見守りなさい。セックスを愛と考えてはいけない、そうでないとあなたはだまされてしまう。気をつけなさい、そしてだれかがそこにいるだけ、その存 在だけで――ほかにはなにもない、ほかにはなにも必要ない、あなたはなにも求めていない――ただ存在だけで、相手がいるだけで幸せを感じるようになるな ら……あなたのなかでなにかが開花しはじめる、千と一つの蓮の花々が……そのとき、あなたは愛のなかにある、そのとき、あなたは現実がつくりだすありとあ らゆる困難を通り抜けることができる。多くの苦悩、多くの不安――あなたはそのすべてを通り抜けることができる、そしてあなたの愛はもっともっと開花して いく、なぜなら、こうしたすべての状況が試練となるからだ。そしてあなたの愛は、それらを克服することによって、もっともっと強いものになっていく。

 

愛は永遠なるものだ。愛があるなら、それはさらにさらに成長していく。愛は始まりを知っているが、終わりを知らない。

Osho,The Discipline of TranscendenceVol. 1, Talk #2 より抜粋

 

そして必要条件とはなんだろう? 必要条件は、惜しみなく愛する人はいつでも愛を与える用意があり、それが返ってくるかどうかなど気にしないという ことだ。それはいつでも返ってくる。それはものごとのまさに本質だ。あなたが山に行って、歌をうたえば、谷が応えるようなものだ。山々で、丘で、こだまが 返ってくる場所を知っているかね? あなたが叫ぶと、谷が叫び、あなたが歌うと、谷が歌う。それぞれのハートは谷だ。そのなかに愛を注ぎ込めば、それは応える。

 

愛の最初のレッスンは、愛を求めるのではなく、ただ与えることだ。与える人になりなさい。

 

人びとはちょうど反対を やっている。与えるときですら、返ってくる見込みがあって初めて、愛を与える。それは取り引きだ。彼らは分かち合わない、気前よく分かち合わない。彼らは 条件付きで分かち合う。それが返ってくるかどうか、こっそりと目の端でうかがっている。とても貧しい人たちだ……愛の自然な働き方を知らない。注ぎさえす れば、それは返ってくる。

 

たとえ返ってこなくても、なにも心配することはない、というのも、愛する人は愛することが幸せなことを知ってい るからだ。返ってくるなら、それでよし。そのときは愛が何倍にもなる。だが、それが二度と返ってこなかったとしても、そのまさに愛するという行為で、あな たは幸せになり、喜びにあふれるのだから、それが返ってくるかどうかなどだれが気にするだろう?


愛そのものに幸せが内在している。あなた が愛するとき、それが起きる。結果を待っていなくてもいい。とにかく愛しはじめなさい。だんだんと、はるかに多くの愛が自分に返ってくることを、あなたは 知るだろう。人は愛し、そして愛することによって初めて、愛とはなにかを知るようになる。泳ぐことで水泳をおぼえるように、愛することによって人は愛する ようになる。

 

人びとはとてもケチだ。だれかすばらしい恋人が現れるのを待っている、そうしたら愛そうと。彼らは閉じたまま、内側に引っ込 んだままだ。彼らはただ待っている。どこかからクレオパトラのような人が現れたらハートを開こうと考えているが、そのときにはどうやってハートを開くのか を完全に忘れてしまっている。

 

どんな愛の機会も見逃してはいけない。通りを歩いていても、愛情深くなることはできる。乞食にだって愛情深 くなることができる。彼になにかを与えなければいけないというのではない。少なくとも微笑むことはできる。それにはお金がかからないが、そのまさに微笑み があなたのハートを開き、あなたのハートをもっと生き生きとさせる。だれかの手を握ってみなさい――友人でもいいし見知らぬ人でもいい。ふさわしい人が現 れたときにだけ愛することにしよう、などと待っていてはいけない。それではふさわしい人はけっして現れないだろう。愛しつづけなさい。愛すれば愛するほ ど、ふさわしい人と出会う可能性が出てくる、なぜなら、あなたのハートが開花しはじめるからだ。そして花開いたハートは多くの蜜蜂たち、多くの恋人たちを 引き寄せる。

 

あなたはひどく間違ったやり方でしつけられている。第一に、みんながすでに愛し方を知っているという間違った印象の下で、み んなが生きている。生まれながらに、自分は愛し方を知っていると、あなたは考えている。それはそんなに簡単なことではない。確かに、その潜在能力はある が、潜在能力は訓練され、鍛えられなければならない。

 

種子を持ちつづけたとしても、一匹の蜜蜂もやってこないだろう。種子に蜜蜂がたかっているのを見たことがあるかね? 種子が花になることを彼らは知らないのだろうか。だが、それらが開花すると彼らはやってくる。花になりなさい、種子のままでいてはいけない。

私はけっして、愛は結婚によって破壊されるとは言っていない。どうして結婚が愛を破壊することができようか? 確かに、愛は結婚のなかで破壊されるが、それは結婚によってではなく、あなたによって破壊される。

それはパートナーによって破壊される。どうして結婚が愛を破壊できようか? それを破壊するのはあなただ、なぜなら、あなたは愛とはなにかを知らないからだ。あなたは知っているふりをしているだけ、知っていればいいなと思っているにすぎない。

知っているつもりで夢を見ているが、あなたは愛とはなにかを知らない。愛は学び取られなければならない。それはありうる最高のわざ、アートだ。  

人びとがダンスをしているとき、だれかが「いっしょに踊りませんか」と誘ったら、あなたは「踊り方を知らないのです」と答える。すぐに立ち上がって、踊りはじめ、あなたがすばらしいダンサーであることをみんなに印象づける、ということはない。あなたの不器用さが明らかになるだけだ。あなたがダンサーとして認められないだろう。それは学ばれなければならない――その優美さを、その身のこなしを。そのために肉体を訓練しなければならない。  

あなたはすぐに絵を描きはじめない、そこにキャンバスがあり、絵筆があり、絵の具があったとしても。あなたは絵を描きはじめない。「必要なものはすべて揃っている、さあ絵でも描こうか」とは言わない。絵を描くことはできても、そんなふうにして絵描きになれるものでない。  あなたはひとりの女性と出会う――キャンバスがそこにある。あなたはすぐに恋人になる。あなたは絵を描きはじめる。そして彼女もあなたの上に絵を描きはじめる。

もちろん、あなた方は二人ともバカであることが明らかになる――絵の具が塗りたくられたバカ者であることが――そして遅かれ早かれ、あなたたちはなにが起こっているのかを理解する。だが、あなた方は愛がアートであるとは一度も考えなかった。あなたは生まれながらにそのわざを身につけていない。それはあなたの誕生とかかわってはいない。あなたはそれを学ばなければならない。それはもっとも繊細なアートだ。

 あなたはその能力を持って生まれてくる。もちろん、あなたは肉体とともに生まれる。肉体があるから、あなたは踊り手になれる。あなたは身体を動かせるし、踊り手になれるが、踊り方を習わなければならない。ダンスを習うには多くの努力が必要となる。そしてあなたひとりがかかわっているだけだから、踊ることはそんなに難しくはない。

 愛はもっとはるかに難しい。それはほかのだれかとダンスをすることだ。

相手もやはりダンスとはなにかを知っていなければならない。だれかと調和することはすばらしいアートだ。ふたりの人間のあいだにハーモニーをつくりだすことだ……ふたりの人間はふたつの異なる世界を意味する。ふたつの世界が近づくとき、どうやって調和するかを知っていなかったら、衝突が起こらざるをえない。

愛とは調和だ。そして幸福、健康、調和、すべては愛から起こってくる。愛することを学びなさい。

結婚を急がずに、愛することを学びなさい。最初に惜しみなく愛する人になりなさい。