愛は食べ物だ、魂にとっての食べ物。子どもが初めて母親の 乳房を吸うとき、彼はふたつのものを吸っている、ミルクだけではない。ミルクは彼の体に入っていき、愛は彼の魂に入っていく。愛は目には見えない、まさに 魂が目には見えないように。ミルクは、まさに体が目に見えるように、目に見える。もしあなたに見る眼があれば、母親の乳房から子どもの存在に、ふたつのも のが同時に注ぎ込まれているのがわかる。ミルクはまさに愛の目に見える部分、愛はミルクの目には見えない部分――暖かみ、愛、慈愛、恵みなのだ。
もし子どもが朝食を逃していたら、そうだとしたら、若者になると愛にひどく飢えてしまうだろう……そして、それが問題を生む。そうなると、彼は愛を待ちき れなくなる……それが問題を生む。そして、彼はひじょうに焦って愛を求める……愛はとてもゆっくりと育つから、それが問題を生むのだ。それには忍耐が必要 だ。そして、急げば急ぐほど、逃す可能性が高くなる。
それを自分自身や他の人たちに見たことはないかね? 愛の必要性が度を越している人 たちは、かならず苦しむ。なぜなら、彼らはつねに、誰も自分を満たしてくれないと感じているからだ。事実、誰も、改めて彼らの母親になろうとはしない。母 子の関係では、子どもに求められるものは何もなかった。子どもに何ができるかね? 彼は無力なのだ。何ひとつ返せない。せいぜい笑うことができるだけ、た だそれだけだ。あるいは、母親の行く先を目で追う、それしかできない。ちょっとした、美しい仕草だが、他のことは何もできない。母親は与えるしかない、子 どもは受け取るしかない。
もし朝食時にこれを逃していたら、あなたは自分の母親になってくれる女性を探し求めことになるだろう。さて、女 性が探しているのは恋人であって、息子ではない。そこには当然、問題が生じる。たまたま、偶然にでも、息子を探している女性を誰か見つけることができれ ば、話は別だ。それならば、ものごとはまとまる、それなら、ふたつの病がかみ合う。
いつも起こることだが、悲観的な人は自分にぴったりの
楽観的な人をかならず見つける。サディストは、自分にぴったりのマゾヒストをかならず見つける。高圧的な人は、支配されることを必要としている人をかなら
ず見つける。それなら、彼らはうまが合う。ふたりのマゾヒストがいっしょに暮しているのは見かけない、絶対に。私は何千ものカップルを見てきた。これま
で、パートナーが両方ともサディストか、あるいはパートナーが両方ともサディストだというカップルには一度も出会えたことがない。いっしょに暮らすのは不
可能だ。彼らはかみ合わなければならない。反対の人たちだけがうまが合う。だから、人びとはつねに反対の人と恋に落ちる。
もし息子を探している女性に出会えたとして……それもまた醜悪だ、それもまた病的だ。なぜなら、女性は本来、恋人を探していて当然だからだ、子
どもではなく。そして、これが問題であり、問題はますます複雑になっていく――たとえ彼女は息子を探しているにしても、彼女はそれに気づいていない。そし
て、たとえあなたは母親を探していても、そのことに気づいていない。事実、女性が母親のようにあなたの面倒をみようとすると、あなたは傷つく。あなたは言
うだろう、「何をするんだ? 私が子どもだとでも?」。ところが、あなたは母親を探しているのだ。何千、何百万もの人びとが母親を探している。
男性が女性の乳房にこれほど興味を示しているように見えるのは、そのためだ。さもなければ、女性の乳房にこれほど興味を抱く必要はない。その興味は、子ど
もの頃、朝食時に、あなたが何かを逃していたことを示しているにすぎない。それが続いている。それがあなたのマインドの上を舞っている、あなたに付きま
とっている。乳房は朝食時のためにある。いまだに、なぜあなたは思いつづけ、描きつづけるのか?
奥深く、よく見てごらん。というのも、それはあなたの責任ではないからだ、あなたとは何の関係もない。今となっては、自分の母親を変えることはできない。それはそのように起こってしまったのだ。だが、あなたは自覚することはできる。
内側のこうしたことすべてを自覚することはできる。そして、自覚することで、奇跡が起こる。もしあなたがこれらのことを自覚するようになったら、それらは
落ちはじめる。それらは深い無意識の中でしか、あなたにつきまとうことができない。深い自覚が変容する力になりはじめる。
だから、ただ自 覚するようになりなさい! もしあなたが愛に対して何か子どもじみた態度を取っているのであれば、自覚し、見つけ出し、深く探りなさい。すると、自覚する ようになるだけで、それらは落ちる。だから、他には何も必要ない。まずは自覚するようになり、それから、「今度は何をしたらいいのか?」と問わなければな らないということではない。あなたが自覚するようになる瞬間に、それらは消える。なぜなら、自覚することで、あなたは大人になっていくからだ。
子どもは自覚していない。子どもは深い無意識状態で生きている。自覚するようになることで、あなたは大人になり、成熟していく。だから、無意識の中でまと
わりついていたものが、すべて消える。ちょうど部屋に光を持ちこめば闇が消えるように――あなたのハートの奥深くに自覚を持ちこむがいい。
次に、昼食をも逃す人たちがいる。そうなると、彼らは晩年には、いわゆる「変態じじい」になる。そうなったら、晩年になって彼らは、絶えずセッ クスのことしか考えないようになる。彼らは直接的にセックスのことを話したりはしないだろう――セックスに反対する話をはじめるかもしれない――だが、 セックスのことを話す。反対しているにしても、違いはない。
インドのいわゆる聖者たちのところに行って話を聴くと、彼らがいつもセックス に反対する話をして、ブラフマチャリアをたたえてばかりいることがわかるだろう。この人たちは自分の昼食すら逃した。もう、夕食の時間になっている……そ して、彼らはおかしなことになっている。さあ、彼らは、今にも死がやって来ようとしているのを知っている。そして、死が近づいていて、時間が彼らの手から 消えていくとき、彼らがノイローゼになるとしても、自然なことに思える。
このノイローゼにかかった人たちのことは古い経典に出てくる。彼 らが瞑想していると、アプサラ――天国からの美しい女性たち――が、降りてくるというのだ。裸で、彼女たちは彼らの周りで踊る。なぜ彼女たちがそんなこと をしなければいけないのか? ヒマラヤの山中で瞑想しながら坐っている年寄りのことを、誰がかまってくれるかね? 誰が気にする? 彼は死んだも同然なの だ――誰も気にしないだろう? この天国からのアプサラたち、彼女たちはもっといい人を見つけることができる。事実、アプサラを追いかけている人は山ほど いる。リシ――このいわゆる聖者たちを追いかける暇など、彼女たちにはあるはずがないだろう? いや、それはアプサラや天国や何やかやとはいっさい関係な い。それは、この人たちが朝食と昼食の両方を逃したということにすぎない。そして夕食の頃までには、彼らの想像力が彼らとすばらしいゲームをしていること になる。それは彼らの空想、飢えにかられた空想なのだ。
ひとつのことをやってみるといい。三週間、ただ断食を続ける。すると、あらゆると ころに食べ物が見えはじめるだろう……あらゆるところに! 空へとかけ昇る満月を見てすら、パン、チャパティのようだとあなたは言うだろう。それは、その ようにして起こる。あなたは投影しはじめる、あなたの想像力があなたとゲームをしているのだ。
もしこうなってしまったら、そうだとした ら、慈愛はけっしてわいてこない。ゆっくり進むがいい、油断せず、よく見ながら、愛をこめて。あなたがセックスをしたくなっても、私はセックスを落としな さいとは言わない。私が言っているのは、それが愛になることができるように、それをもっと油断のないものにしなさい、それをもっと祈りに満ちたものにしな さい、もっと深みのあるものにしなさい、ということだ。もしあなたが愛にあふれていたら、そのときは、それをさらにもっと感謝に満ちたものにしなさい。そ れが慈愛になることができるように、もっと深い感謝を、喜びを、祝祭を、祈りをそれに持ち込むがいい、それに瞑想を持ち込みなさい。
慈愛があなたに起こっていないかぎり、自分は正しく生きたとか、生きているとか、いっさい思わないことだ。慈愛が開花だ。そして、慈愛がひとりの人に起こると、何百万もの人たちが癒される。彼の周りに来る人たちは、誰でも癒される。慈愛には癒す力がある。
A Sudden Clash of Thunder, #8 より抜粋