成熟とは、人はもはやロマンチックな愚か者ではないということだ | リレーティング

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愛についてのOSHOの講話をセラピストVIJAY(辻本ひさし)が紹介し
ます。またエッセンシャルライフコンサルティングや瞑想・セラピーからの人間関係に役立つ知恵も紹介。

ふたりの人が、離れていて不幸せだったら、いっしょになればいっそうの不幸せをお互いのためにつくりだす。それは計算どおりになる。あなたは不幸せ だったし、あなたの妻も不幸せだったのに、いっしょになってふたりは幸せになれると、ふたりとも期待しているのだろうか? これは……これは二足す二は四 のように、ごく当たり前の算術だ。それほど単純なことだ。それは高等数学のようなものではない。まったく当たり前のこと、指折り数えられるものだ。あなた 方はふたりとも不幸せになる。

 

結婚を前提にした恋愛がある。そうした恋愛を当てにしないこと。じつのところ、結婚する前に、そうした恋愛 から抜け出すがいい。結婚はハネムーン、蜜月期間の前ではなく、その後に起こるべきだ、というのが私の持論だ。すべてが整ったときにのみ、そのときに初め て結婚がなされるべきだ。

 

結婚後のハネムーンはとても危険だ。私の知るかぎり、99パーセントの結婚はハネムーンが終わるころには終わっ ている。だが、そのときにはあなた方は捕まっている、もはや逃げ出すすべがない。そうなると、あなたが妻を捨てようものなら、妻があなたを捨てようものな ら、社会全体、法律、裁判所、あらゆる人があなた方に対立する。そのときには、すべての道徳、宗教、聖職者たち、あらゆる人があなた方に対立する。本当の ところ、社会は結婚へのあらゆるバリヤーを設けるべきであり、離婚にはいっさいバリヤーを設けるべきではない。社会は人びとにこれほど簡単に結婚を許すべ きではない。裁判所はバリヤーを設けるべきだ――その女性と少なくとも二年はいっしょに暮らし、そうして初めて裁判所はあなた方に結婚を許可する。

 

現時点では、彼らはその逆をやっている。あなたが結婚したがると、あなたに準備ができているか、それはたんなる気まぐれで、その女性の鼻の形が気に入った にすぎないのか、だれも問いただしはしない。なんとばかげたことか! 形のよい鼻だけで生きていくことはできない。二日もしたら鼻のことなど忘れてしま う。妻の鼻などだれが眺めるだろう? 妻が美しく見えることはない、夫が美しく見えることはない。いったん慣れてしまうと、美しさは消えてしまう。

 

ふたりの人がお互いに打ち解けて、慣れ親しむようになるまで、十分に長いあいだいっしょに暮らすことを許されるべきだ。たとえふたりが結婚を望んでいて も、それは許されるべきではない。そうしたら世界から離婚は消えてなくなるだろう。離婚が存在するのは、結婚が間違ったもの、強いられたものだからだ。離 婚が存在するのは、結婚がロマンチックな雰囲気のなかで行われるからだ。

 

あなたが詩人ならロマンチックな雰囲気もいいだろう…それに詩人 たちは良き夫や良き妻としては知られていない。じつのところ、詩人はほとんどつねに独身者だ。彼らは遊び半分のつきあいはしても、けっして捕まらないか ら、そのロマンスは生きたままだ。彼らは詩を、美しい詩を書きつらねる。人は詩的な雰囲気のなかで女性や男性と結婚するべきではない。散文的な雰囲気が やってきて、そこに落ち着くのを待ちなさい。なぜなら、日々の生活は詩的というより散文的だからだ。人は十分に成熟しなければならない。

 

成熟とは、人はもはやロマンチックな愚か者ではないということだ。人は人生を理解し、人生の責任を理解し、他人といっしょに暮らすことの問題を理解してい る。いっさいのこうした困難を受け容れて、それでもその人と暮らすことを決意する。薔薇が咲き乱れる、天国のような暮らしだけを期待してはいない。ナンセ ンスを期待してはいない。現実が厳しいことを知っている。それは荒々しいものだ。薔薇も咲くだろうが、それはめったにないことだ。棘はいくらでもあるが。

 

こうしたすべての問題に気がつくようになり、それでもリスクを冒して、ひとりでいるよりもその人といっしょにいることを選ぶのなら、結婚するがいい。そう なれば結婚が愛を殺すことはない、なぜなら、この愛は現実的なものだからだ。結婚はロマンチックな愛しか殺せない。そしてロマンチックな愛とは人びとが幼 い恋と呼ぶものだ。それを当てにすべきではない。それを滋養があるものと考えるべきではない。それはアイスクリームのようなものかもしれない。たまに食べ るのはいいが、それは当てにすべきものではない。人生はもっと現実的なもの、もっと散文的なものであるはずだ。

 

結婚そのものがなにかを壊 すわけではない。結婚はあなたのなかに隠れていたものを持ち出すにすぎない。それは持ち出す。愛があなたの背後に、あなたのなかに隠れていたら、結婚はそ れを持ち出す。愛が見かけだけのもの、餌にすぎなかったら、遅かれ早かれ、それは消えてしまうしかない。そしてあなたのリアリティ、あなたの醜い人格が表 面に表れてくる。結婚はたんに機会にすぎず、あなたが持ち出さざるをえないものが外に出てくる。

 

愛は結婚によって破壊される、と私は言っ ていない。愛は愛し方を知らない人たちによって破壊される。愛が破壊されるのは、最初から愛がないからだ。あなたは夢のなかに生きている。現実がその夢を 破壊する。そうでなければ愛は永遠のもの、永遠の一部だ。あなたが成長すれば、あなたがそのわざを身につけ、そして愛の生活のリアリティを受け容れるな ら、それは日々成長していく。結婚は愛のなかへ成長していくこの上もない機会となる。

 

なにものも愛を破壊できない。愛があるなら、それは 成長しつづける。だが、私の感じでは、愛は最初からそこにない。あなた方は自分を誤解していた。なにか別のものがそこにあった。たぶんセックスがあった、 性的な魅力があった。だとすれば、それはやがて破壊されてしまう、というのも、一度でも女性を愛してしまえば、その性的魅力は消えてしまうからだ、なぜな ら、性的魅力は未知ゆえのものだからだ。その女性または男性の肉体を一度でも味わってしまえば、性的魅力は消えてしまう。あなたの愛が性的魅力にすぎない なら、それはいずれ消えるしかない。だから、愛とほかのものを取り違えないこと。愛がほんとうの愛なら……。

 

「ほんとうの愛」という言葉 で、私はなにを言おうとしているのか? 私が言いたいのは、相手がそこにいるだけで、あなたは急に幸せになり、いっしょにいるだけで、エクスタシーを感 じ、相手が目の前にいるだけで、ハートが奥深くまで満たされる……ハートのなにかが歌いだし、あなたは調和に落ちる。相手がそこにいるだけで、あなたは一 体感をおぼえる。もっと個人になり、もっと中心が据わり、もっと大地に根づく。そうなるのなら、それは愛だ。

 

愛は情熱ではない、愛は感情ではない。愛とは、どこかのだれかがあなたを完全なものにしてくれるという、とても深い理解だ。たれかがあなたを完全な円にしてくれる。相手の存在があなたの存在を高める。愛はあなた自身でいる自由をもたらす。それは所有欲ではない。

 

だから、見守りなさい。セックスを愛と考えてはいけない、そうでないとあなたはだまされてしまう。気をつけなさい、そしてだれかがそこにいるだけ、その存 在だけで――ほかにはなにもない、ほかにはなにも必要ない、あなたはなにも求めていない――ただ存在だけで、相手がいるだけで幸せを感じるようになるな ら……あなたのなかでなにかが開花しはじめる、千と一つの蓮の花々が……そのとき、あなたは愛のなかにある、そのとき、あなたは現実がつくりだすありとあ らゆる困難を通り抜けることができる。多くの苦悩、多くの不安――あなたはそのすべてを通り抜けることができる、そしてあなたの愛はもっともっと開花して いく、なぜなら、こうしたすべての状況が試練となるからだ。そしてあなたの愛は、それらを克服することによって、もっともっと強いものになっていく。

 

愛は永遠なるものだ。愛があるなら、それはさらにさらに成長していく。愛は始まりを知っているが、終わりを知らない。

Osho,The Discipline of TranscendenceVol. 1, Talk #2 より抜粋