少し過ぎましたが、みやぴんが参加した熱田神宮書き初め大会の賞状をいただいてきました。
作品も展示していただいて、良い一年のスタートです。
今年の5年生は201作品の提出、そのうち入賞は12人(特賞を含めると19人)。
1割弱しか「賞」をいただけないと考えると、有り難いことだしよくがんばったと我が子ながらに尊敬。
掲示された作品を見ながら、同じ5年生の特賞の作品を指して「私、これより書けてると思う…この賞、ほんとに?」とつぶやくみやぴん。それは確かに、私達からするとみやぴんの方が良い字だと思ってしまうものでした。
「うん。みやぴんの字の方が母ちゃんは好きだ」そう答えつつ、「芸術って難しいね。でもさ、この賞のこの字と比べて云々じゃなくて、とにかくみやぴんの字が"誰が見ても素晴らしいと思える字"だったかどうか、なんじゃないかな」と言うと、「そうじゃなかったよね…」と悔しそうに言うみやぴん。
「賞の付け方に疑いがあるとか言っちゃうとさ、もう何が何だかワケが分からなくなっちゃうじゃない?少なくとも、この賞はもう結果として出てるんだし、それはそれでおめでとうだよね」
「うん。まぁ…」
みやぴんも分かっているのです。
賞の基準が不透明だなんて言うことは、単に言い訳に過ぎないということを。
それでも、言いたくなってしまう気持ちも分かる。
それはそれで、みやぴんの本気と頑張りがあってこその悔しさの発露だから。
とはいえ、そこにあるのは「みやぴんの字が、誰が見ても満場一致で素晴らしい出来栄え」ではなかったという事実。
そう。みやぴんの狙った熱田神宮宮司賞は、素晴らしい出来栄えの書でした。
日々の行動や結果の中で、言い訳したくなることはよくよくあること。
でも、「自分は今、言い訳を言っている」とか「自分は何に対してどう感じてこう言っているのか」、「ほんとうはなにか」ということを少し引いた目で冷静に把握しておくことで、大切なものを見失わずに済むんじゃないかと思っています。
大切なもの?
言い訳の向こう側にある「本当に欲しいもの」かな。