子供の教育には、お金がかかります。
塾や習い事はもちろん、教材費、検定料、受験料、交通費……。
親は「子供のため」と思って、少しずつ、あるいは時には驚くほど大きなお金を支払っています。
「本当にこれでいいのだろうか。」
そう思ったことのある親御さんは少なくないはずです。
私もまた、いつも一つの問いを持っています。
「この教育コストは、本当に子供の利益になっているのだろうか。」
教育ほど、効果の検証が難しいものはありません。
医療であれば、治療群と対照群を比較することができます。しかし、自分の子供に対してはそれができません。
幼児教室に通わせた世界と、通わせなかった世界。
塾や習い事に通わせた世界と、そうでなかった世界。
その両方を比較することは、原理的に不可能です。
結局、「あの教育は意味があったのか」という問いに、誰も本当の意味では答えられません。
だから私は、「正解」を探すことをやめました。
代わりに考えるようになったのは、
「この教育は、子供の将来の可能性を広げる期待値があるか。」
ということです。
ここでいう期待値とは、点数や合格通知だけではありません。
自ら学ぶ姿勢、小さな成功体験、知的好奇心、自信、努力を積み重ねる感覚。そうした、目には見えない生涯の財産まで含めて考えています。
私は子供たちに漢検、英検、数検を受けさせています。
しかし、誤解を恐れずに言えば、私はこれらの資格そのものには、あまり価値を感じていません。
履歴書に書けるような価値が出てくるのは、ごく一部の級だけでしょう。
それでも受けさせている理由は、資格を取らせたいからではありません。
学習の機会をつくるためです。
例えば漢検。
我が家では飛び級をしません。一つずつ級を積み上げます。
理由は、漢字の読み書きだけではなく、熟語、慣用句、対義語、類義語などを体系的に学べるからです。
学校で漢字を習う頃には、子供たちはすでに一度学んでいます。
資格のために勉強しているわけではありません。
語彙力を育てる教材として、漢検を利用しているのです。
英検も数検も同じです。私は資格を集めさせたいのではありません。
検定という仕組みを利用して、「少し頑張れば届く目標」と「締切」を子供に与えているのです。
もし子供の成長につながらないと判断したら、迷わずやめます。
資格そのものに執着はありません。
一方で、中学受験については少し考え方が異なります。
こちらは私は、教育投資として明確な実利があると考えています。
学習環境、友人、教師、そして将来の選択肢。
それらを考えると、中学受験は子供の可能性を広げる投資として十分意味があると判断しました。
だから、このブログにも書いてきたように、時間も、お金も、労力も惜しんでいません。
しかし、それ以上に気を付けていることがあります。
それによって子供の内面を壊していないか、ということです。
私は、テストで良い点を取る「学力」よりも、未知の問いに出会ったときに面白がって考えられる「知性」を大切にしたいと思っています。
競争の中でも他者への敬意を失っていないか。
学力だけが人の価値だと思っていないか。
そして、自ら学ぶ姿勢を失っていないか。
そのことを、結果以上に大切に見ています。
受験で良い学校へ進学することは、大きな価値があります。
しかし、その過程で、
「勉強は親の期待に応えるためのもの」
「結果が悪いと自分には価値がない」
そんな考え方になってしまったら、本末転倒です。
教育とは、子供の可能性を広げるためにあるのであって、可能性を狭めるためにあるのではありません。
教育には正解がありません。
だからこそ、お金をかければ良いわけでも、お金をかけなければ良いわけでもありません。
教育費は、ケチることも、美化することも危険です。
大切なのは、その教育コストが、子供の将来の可能性を本当に広げるものなのかを考え続けることだと思っています。
その答えは、おそらく一生分からないでしょう。
それでも私は、これからも教育コストを払い続けると思います。
資格を買うためでも、学歴を買うためでもありません。
子供が、自分で考え、自分で学び、自分で人生を選べる人間になる可能性を、少しでも広げるために。