「ギフテッド」という言葉を、最近よく耳にします。
周囲より理解が早い子。
矛盾や非合理に敏感な子。
そういう子が、学校や集団生活の中で苦しむことはあるのだと思います。
ただ私は、この「ギフテッド」という言葉が、少し危うく使われることもあるように感じています。
「頭が良すぎるから、周囲と合わない」
それがいつの間にか、
「周囲のレベルが低いから、自分は馴染めない」
「自分が浮いているのは、周りが凡庸だからだ」
という物語に変わってしまうことがあるからです。
なぜそこに引っかかるのか。
それは、昔の私にも少しそういうところがあったからです。
自分のほうが先に気づいており、正しい。
それなのに周囲が理解しないのは、周囲の能力が低いからだ。
そんなふうに考えていた時期が、私にもありました。
今思えば、なかなか恥ずかしい話です。
もちろん、本当に周囲より先に気づいていたこともあったと思います。
自分の考えが間違っていなかったこともあったでしょう。
でも、そこで止まってはいけなかったのだと思います。
正しいことに気づく力と、それを相手に伝える力は、まったく別の能力です。
そして私は、その違いをあまり分かっていませんでした。
もちろん、集団に馴染めない理由は一つではありません。
高IQだけでなく、感覚過敏、発達の凹凸、精神的な特性、環境との相性など、本人の努力だけではどうにもならない苦しさもあります。
だから、馴染めないこと自体を責めたいわけではありません。
本人の努力や根性だけでは解決できない問題も、確かにあります。
ただ、それでも私は思います。
どんな特性があったとしても、それを他人を見下す理由にしてはいけない。
「自分は特別だから」
「分からない周囲が悪いから」
そういう姿勢に逃げ込んでしまうと、そこで成長が止まってしまいます。
大切なのは、特性があるかどうかではなく、その特性とどう向き合うかだと思います。
これは、外科医として仕事をしていても強く感じます。
医者には変わった人が多い。社会性に難がある人も少なくない。
そんなふうに言われることがあります。
悔しいですが、外科医として働いていると、それを完全には否定できない場面もあります。
専門的な能力が高いことと、人とうまく関われることは、やはり別の能力だからです。
手術では、先を読む力が必要です。ただ、手術は一人で行うものではありません。
麻酔科医、看護師、臨床工学技士、助手、病棟スタッフ。多くの人が関わっています。
自分だけが分かっていても、チームに伝わらなければ安全にはつながりません。
「そんなことも分からないのか」
「こっちが正しいに決まっている」
そんな態度では、チームは萎縮します。
萎縮したチームでは、小さな違和感が共有されにくくなります。
それは医療安全にとって、とても危険です。
本当に大切なのは、自分の正しさを振りかざすことではありません。
自分に見えているリスクを、周囲に届く形で伝えることです。
正しさは、届いて初めて意味を持ちます。
これは、子育ても同じだと思っています。
わが家でも、子どもにはよくこう話しています。
「学校は、勉強だけを学ぶ場所ではなく、人との関わり方を学ぶ場所でもある」
「自分が早く分かったなら、分からない子を馬鹿にするのではなく、助けてあげればいい」
「能力のある人は、人を見下す人ではなく、人を引き上げられる人だ」
もちろん、こんな声かけをしたからといって、子どもがすぐに立派になるわけではありません。
親の言葉が、どこまで届いているのかも分かりません。
それでも、こういう価値観は繰り返し伝えていく必要があると思っています。
幸い、息子は周囲より理解が早いタイプだと思いますが、友達も多く、ありがたいことに慕われてもいるようです。
もちろん本人の性格もあるでしょう。周囲の友達に恵まれている面もあるでしょう。
ただ、日頃から上記の声掛けをしてきたことも、少しは影響しているのではないかと思っています。
早く問題が解ける。先に理解できる。
友達が分かっていないことに気づく。
そのときに、
「なんでこんなのも分からないの?」
となるのか。それとも、
「ここで困っているのかな。じゃあ、こう説明したら分かるかな」
となるのか。
この差は、とても大きいと思います。
能力が高いこと自体は、善でも悪でもありません。
問題は、その能力をどう使うかです。
自分を高く見せるために使うのか。人を見下すために使うのか。
それとも、周囲を助けるために使うのか。
そこに、その人の姿勢が出るのだと思います。
IQが高いから、EQが低くても仕方ない。
私は、そうは思いません。むしろ逆だと思います。
周囲より先に気づいてしまう人ほど、より高いEQや翻訳能力が求められる。
見えてしまうからこそ、伝え方に配慮しなければならない。
先に答えにたどり着くからこそ、まだそこにいない人を置き去りにしてはいけない。
高い能力は、社会性を免除してくれません。
むしろ、高い能力を持つ人ほど、それを社会の中でどう使うかが問われます。
「ギフテッド」という言葉は、苦しさに名前を与えてくれることがあります。
自分や子どもの生きづらさを理解する入口になることもあるでしょう。
ですが、その言葉に逃げ込んで、「自分は特別だ」となっては危うい。
ギフテッドは、社会性の免罪符ではありません。
でも同時に、社会性は生まれつきだけで決まるものでもない。
家庭の中で、日々の声かけの中で、少しずつ育てていけるものだと思います。