よく知られているように唐招提寺を建立した中国の高僧、鑑真はやっとの思いで、今の鹿児島県坊津にたどり着いた。そのことは私自身よく知っていたが、坊津にたどり着いた後、どのようにして奈良までたどり着いたのかはなかなか分からなかった。
最近、調べるようになった古代の道路に西海道がある。この道をたどって、大宰府にまず到着したのかな、とも考えていた。しかし、すでに視力を失い、体力を消耗していた鑑真が歩いていったとも想像できなかった。
坊津にある「鑑真記念館」に行っていれば分かったのかもしれないが、坊津に行くにはかなりの時間を要するので、そこへ行くことはなかなかむつかしかった。
鑑真記念館 | 南さつま市観光協会 (kanko-minamisatsuma.jp)
あれこれ調べていたら、こんなサイトがあり、このところの疑問がやっと解けたのだ。下線部は引用者。陸路利用を考えていたのが間違いである。海上交通がかなり発達していたことに気づかされた。
(第31回)坊津(ぼうのつ)~鑑真和上渡来の地~(2013,01,15) | 南勢出版 (nansei-shuppan.com)
帰国する遣唐使船は、晩秋から冬期に吹く北西の季節風に乗って中国大陸を離れ、いったん琉球諸島や奄美諸島のどこかの島かに立寄ったあと、黒潮や対馬海流に乗って種子島・屋久島などの薩南諸島周辺まで北上、天候を見はからって坊津に入港するのがお決まりのルートになっていた。揚子江河口の真東に位置する坊津への直行は不可能だったのだ。鑑真らの乗る第2船は沖縄に着いたあと島伝いに無事屋久島まで北上した。だが屋久島から坊津への航行中に嵐に遭遇、太平洋側に流されかけたが辛うじて遭難を免れ、難破寸前の状態で坊津秋目浦に着岸したのだった。
坊津が良港とされたのは、琉球諸島西沖で黒潮から分岐して北上する対馬海流がその沖合いを流れていることに加え、同地が特殊な地形を持つからであった。一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、西に向かって開ける複雑な形の4つの入江の総称が坊津なのである。5本の指を広げたような地形の4つの指間に相当する部分がそれぞれ入江になっており、さらに各入江の奥には船の停泊に適した二重、三重の小さな入江が形成され、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる構造になっていた。満足な海図や羅針盤などない時代の波風まかせの小型帆船にとって、4つの浦のどれかに辿り着きさえすれば安全が保証される坊津は願ってもない港であった。開聞岳や野間岳のような航海の目印となる特異な山々が近くにあったのも古代の舟人には幸いなことだった。
坊津秋目の地を踏んだとき鑑真は既に66歳になっていた。仏教の教義にある大勇猛心の化身のごとき鑑真は、苦難の末に降り立った異郷の地でいったいどのような感慨に浸ったことだろう。坊津で修理と補給を終えた船は鑑真一行を乗せて九州西岸沿いに航行し、有明海の最奥にある現在の佐賀県久保田町付近の浜辺へと到着した。そのあと鑑真らは陸路大宰府入りし、博多津に出て再び用意された船に乗り、瀬戸内海を通って難波津に入港した。そして唐を出立した翌年の2月4日に聖武天皇の待つ平城京入りを果たしたのだった。故郷揚州を立ってから平城京に到着するまで実に3ヶ月半にも及ぶ長旅であった。
これを見ると、陸路も当然利用していたことになる。久保田町付近の浜辺から大宰府までの道中はどんな感じだったのだとうか。馬を利用したのであろうか。
次に知りたいのは大隅国出身の足利学校第7世玉崗瑞璵九華がどんなルートで下野国の足利まで向かったのか、ということ。