昨日は、北陸新幹線の金沢-敦賀間が開業しましたね。
令和5年10月6日・在来線ホームから見た開業前の北陸新幹線・敦賀駅
敦賀は福井県の代表的な港で、戦前はウラジオストク港と結んでシベリア鉄道経由でモスクワおよびペトログラード(現・サンクトペテルブルク)へ向かう国際路線の一翼を担っており、東京から敦賀港駅までの直通列車も運行されていました。
復元された旧・敦賀港駅舎(引用:Wikipedia)
(Asturio Cantabrio - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=90123525による)
「大正5年7月訂補 列車時刻表 鉄道員運輸局」記載の日露間連絡
ここでは、敦賀と浦塩斯徳(ウラジオストク)間の航路には「大阪商船航路」と「露国義勇艦隊航路」と記載されています。
はて?露国義勇艦隊航路とは何物だろうか?調べてみましょう。
Wikipediaによると
「1878年にロシア帝国で設立された国営の船舶輸送機関である。参加する海運会社によって集められた自発的な寄付から資金提供を受けたため、この名前が付けられた。ロシアのボランティア艦隊としても知られている。」
と定義されており、
「ロシア政府は、戦時中に補助巡洋艦への改造に利用できるという条件で、民間商船の建造に助成金を支給した。
義勇艦隊は、その存在を通じてロシアの政府と経済発展の両方、特にロシア極東に貴重なサービスを提供し、義勇艦隊はウラジオストクとヨーロッパのロシアの間に最初の定期的な海上輸送網を確立。さらに、日露戦争と第一次世界大戦の両方で海軍に徴用され、本来の存在意義を示した。」
と書かれています。
大東亜戦争前の日本でも、「船舶改善助成施設」と命名された高速・大型の民間船舶建造に対して資金面で政府(帝国海軍のバックアップ)がバックアップする代わりに、有事には特設艦船として徴傭して使用する助成制度があり、この制度を利用して建造された船舶は、設計時に砲架の準備を盛り込む必要がありました。
「船舶改善輸送施設」は、「優秀船舶建造助成施設」と名称を変えながら、大東亜戦争開戦まで続きます。
「優秀船舶建造助成施設」で建造され、戦時中は特設巡洋艦となった
大阪商船・貨客船「愛国丸」
(日本海軍 - 潮書房 丸スペシャル No.53 『日本の小艦艇』11P, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6932432による)
また、日露戦争で義勇艦隊の輸送艦として任用された「カザン(Kazan)」は、帝国海軍により捕獲され「笠戸丸」と改名のうえ大阪商船により運航されています。
北原ミレイさんの「石狩挽歌」に出てくる船ですね。
(令和3年7月3日・神戸旅行記その6 メリケンパークと石狩挽歌の「笠戸丸」)
大阪商船・貨客船「笠戸丸」
(引用:「図説 日の丸船隊史話」山高五郎、1981年7月、至誠堂、P.173)
敦賀―浦塩斯徳間の航路については、HP「百年の鉄道旅行 黄金時代の鉄道をめぐる旅」に要約がありましたので、引用します。
明治39年7月に、ロシア東アジア汽船会社が、敦賀―浦塩斯徳間に週1回の直通定期航路を開設し、「モンゴリア」(2,937トン)が就航します。
【要目】
総トン数2,981トン、全長:109m、
主機:3段膨張レプシロ機間、速力17ノット
※引用:「HP「ホビーランド」」
ロシア義勇艦隊・病院船「モンゴリア」
(引用:HP「ホビーランド」/プラモデルパッケージ)
明治40年には、同じ航路に大阪商船の鳳山丸(総トン数2,509トン、定員217名)が就航し、同年6月にはロシア東アジア汽船の路線は露国義勇艦隊に引き継がれ、貨客船「シンビルスク」が就航し、さらに「アリヨール」も追加投入されます。
【要目(「シンビルスク」)】
総トン数:2,713トン、長さ:94.82m、幅、8.60m、深さ:5.79m
主機:3気筒三段膨張式レシプロ機関、主缶:円缶×4
出力:4,000馬力、速力:16.0m
乗客数:(一等)60名、(二等)30名、(三等)120名
※引用:HP「帝政ロシアの軍と商船団(ロシア語)」
ロシア義勇艦隊・貨客船「シルビンスク」
(引用:HP「帝政ロシアの軍と商船団(ロシア語)」)
これにより、ロシア義勇艦隊と大阪商船により敦賀-浦塩斯徳間は毎週3往復の運航が行われ、シベリア鉄道と連絡し欧亜交通の幹線のひとつとなります。
浦塩斯徳でのウスリー鉄道・東清鉄道との連絡運輸は当初はロシア義勇艦隊が独占していましたが、大阪商船の連絡運輸は、明治43年から日満連絡運輸、明治44年から日満露連絡運輸、大正2年から欧亜連絡運輸が開始されます。
大正中期・シベリア出兵時の浦塩斯徳・アドミラル波止場から見た浦塩斯徳市街
(引用:「西比利亜派遣軍記念写真帖」諸岡富三、1918年12月、諸岡写真館本店、P.41)
ロシア義勇艦隊は、帝政ロシアの瓦解とともに経営基盤を失い、大正9年には敦賀-浦塩斯徳間航路から撤退し、大正12年春には義勇艦隊は清算のうえ国家貿易艦隊に売却されます。
なお、航路を独占する形となった大阪商船も、昭和4年に北日本汽船に譲渡されます。
敦賀-浦塩斯徳間の航路を離れた「シルビンスク」は、大正12年4月に「レーニン」と改名、6月には国家黒海アゾフ海運会社に移管のうえ、黒海に異動しオデッサの商業港に配属され、クリミアとコーカサス地方の境界線に沿う航路に投入され、また定期的に地中海航路へも投入されます。
大正12年9月1日に発生した関東大震災では、大量の物資を積載した「レーニン」が浦塩斯徳を出港、日本側の許可なく9月12日に横浜に入港しますが、この物資は労働者に配布し震災に乗じて革命を企てるものとして日本政府は物資を受取らず、14日には強制退去させるという「レーニン号事件」の立役者となりました。
「レーニン号事件」の状況を伝える外務省の暗号電文
(引用:「露(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050983100、
大正12年 公文備考 巻161 変災災害(防衛省防衛研究所))
「レーニン」は、その後も大正13 年7月にはソフトルグフロット・JSCへ、さらに昭和9年3月には黒海国営海運会社へ、さらに昭和13年から15年にかけては極東州海運会社に移管され、第二次世界大戦により昭和16年年7月には黒海・アゾフ盆地管理局に移管されるなど、目まぐるしく所属が変わります。
その間の昭和9年から15年にかけて主缶を交換、煙突を1本に変更するの等の大規模改装を順次受けています。
そして昭和16年7月27日、「レーニン」は難民とインゴットの非鉄金属の貨物を乗せた船団の一部としてセバストポリからノボロシスクまで航行中に、漂流と航法計器の故障によりソ連の船と衝突し、サリッチ岬沖で海底に姿を消しました。
ということで、今回は敦賀から「ロシア義勇艦隊」という仰々しい名の海運会社、そして敦賀に寄港していた「シルビンスク」という貨客船を取り上げてみました。
古代から渤海使のために松原客館が置かれるなど、大陸の窓口として、また北前船の寄港地として繁栄し、明治に入ってからは欧亜国際連絡列車との連絡航路の窓口として栄えた敦賀ですが、終戦により大陸との航路が縮小され、海外への移動は航空機が主流となってからは、長らく低迷を余儀なくされました。
現在の敦賀港(引用:Wikipedia)
(Alpsdake - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52792289による)
しかし、今回北陸新幹線が延伸開業したことで、新たなステージを迎えました。
ソースカツ丼、冬の蟹を代表とした新鮮な魚介類、歴史を感じる気比神宮や旧敦賀港駅に設置された敦賀鉄道資料館など、見どころもある敦賀。
ぜひ、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
ですが、大阪からだとこれまでと同様に特急「サンダーバード」なんですよね…。
北陸新幹線・E7系新幹線電車
【参考文献】
Wikipedia(ロシア語版含む)
「大正5年7月訂補 列車時刻表 鉄道員運輸局」(復刻版)
「西比利亜派遣軍記念写真帖」諸岡富三、1918年12月、諸岡写真館本店
※国会図書館デジタルコレクション書誌ID:000000581256
【Web】
HP「百年の鉄道旅行 黄金時代の鉄道をめぐる旅」
HP「ホビーランド」
HP「帝政ロシアの軍と商船団(ロシア語)」
HP「国立公文書館・アジア歴史資料センター」
HP「福井県立図書館/図説 福井県史」
HP「敦賀みなと振興会」
HP「国会図書館デジタルコレクション」