英国の掃海艇・日本での数奇な「船生」 | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

手許に「写真と図による 残存・帝国艦艇」という木俣滋郎氏の著作があります。

昭和47年12月の発行なので、50年ほど前の書籍です。

 

「写真と図による 残存・帝国艦艇」

 

当時は、帝国陸海軍の艦艇や特設艦艇、雑役船等がまだ残っていた時代で、現役で活躍していた船が多数載っています。

 

この中で、今回目に留まったのが東海汽船の「こうせい丸」という船です。

 

この船の前身は、英国の「アカシア」級掃海スループの「サンフラワー」という艇でした。

「サンフラワー」は、にグラスゴーのD&W・ヘンダーソン造船所で建造され、大正4年5月に進水しています。

【要目】

 常備排水量:1,200トン、垂線間長:76.2m、全長:80.01m、

 幅10.1m、吃水:3.7m

 主機:4気筒三連成レシプロ機関×1、主缶:円缶×2、推進軸:1軸

 出力:2,200馬力、速力:17ノット

 兵装:7.6cm単装砲×2、47mm対空砲×1など

 ※引用:Wikipedia(英語版)

 

英国海軍・「アカシア」級掃海スループ「アカシア」(引用:Wikipedia英語版)

(By photographer not identified. - This photograph SP 518 comes from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 1900-01), Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6741975)

 

「サンフラワー」は、第一次世界大戦において独国海軍のUボートによる攻撃から輸送船団を守る護衛任務に就きますが、大戦終戦後の大正10年1月にビルマ(現・ミャンマー)ラングーン(現・ヤンゴン)港湾庁に売却され、「ランビア(Lanbya)」と改名のうえ一般商船として運用されます。

 

さらに「ランビア」は、大正12年8月にカルカッタのマクネール商会から大阪商船へ売却され、大阪の藤永田造船所で客船として整備され「屋島丸」と改名されます。

【要目】

 総トン数:947トン、垂線間長:76.3m、幅:10.0m、

 深さ:5.5m、吃水:3.6m 

 主機:三連成レシプロ機関×1、出力:1,900馬力、推進軸:1軸

 最高速力:16.1ノット

 船客定員:(一等)15名、(二等)6名、(三等)247名
 ※引用:世界の艦船別冊「日本の客船1・1868-1945」野間恒/山田廸生、1991年7月、海人社、P.193

 

大阪商船・客船「屋島丸」

(引用:世界の艦船別冊「日本の客船1・1868-1945」野間恒/山田廸生、1991年7月、海人社、P.193)

 

「屋島丸」は、当初は大阪-高松航路へ投入されますが、昭和3年からは大阪-別府航路へ転属します。

そして、昭和8年10月19日に別府港を出港し、高松港に寄港の後20日の朝に神戸港へ向けて航行していました。

この時、台風が石垣島方面から速度を上げて20日早朝に鹿児島県に上陸し、さらに四国を通って瀬戸内海に出た後、正午ごろ兵庫県相生市付近に再上陸します。

 

この時、「屋島丸」は台風の東側に当たる神戸市の須磨沖を航行しており、台風の暴風雨により午後1時5分頃に沈没し、乗客41人、船員26人死亡、乗客2人行方不明の大惨事となり、この台風は「屋島丸台風」と呼ばれることとなります。

 

沈没から7年を経て、「屋島丸」は昭和14年6月に大阪岡田組により浮揚作業が行われ、再び海上へ姿を現します。

 

「屋島丸」の浮揚作業

(引用:「大阪鐵工 1934年12月号」大阪鐵工所、P.27

 国会図書館デジタルコレクション:書誌ID:000000002595)

 

その後、客船化改装工事を受けた藤永田造船所で復旧とともに、主缶の換装により煙突が1本に減じられるなど大幅な改装工事が行われた後、燃料不足のため石炭による運航が可能な本船に目を付けた東京湾汽船(現・東海汽船)が昭和16年5月に購入、「こうせい丸」と改名します。

 

ところが、昭和16年11月に帝国海軍に徴傭され、水路嚮導、見張警戒、監視等の担当となり、東京湾で任務に就くこととなります。

さらに、昭和18年2月に特設駆潜艇に編入され、東京湾を根拠地として対潜警戒に従事し、北は岩手県宮古、西は和歌山県串本と駆け回ります。

 

しかし、船体は錆だらけで速力も5~6ノットしか出なかったそうで、三菱重工横浜造船所で修理修理をする際に航海長から「錆の厚みで浮いているような船なので、錆を落とさないでくれ」と言われたほどの老巧船となっていました。

 

それでも、昭和19年5月以降は伊豆諸島方面までの船団護衛にも就くようになり、昭和20年3月には本土決戦に備えるべく特設敷設艇に類別変更され、横須賀で終戦を迎えます。

 

終戦後・東京晴海埠頭に係留された「こうせい丸」のスケッチ

(引用:「図説 日の丸船隊史話」山高五郎、1981年7月、至誠堂、P.155)

 

戦後は、昭和17年に東京湾汽船から社名変更した東海汽船により、客船としてではなく貨物船として下田-伊豆大島-東京の三角航路に投入されていたようですが、昭和24年には豊洲埋立地に係留されていたようです。

 

そして、昭和25年に「低性能船舶買入法」により国に引き取られ、28年頃にスクラップにされ、ひっそりと姿を消していきました。

 

英国に生まれたものの日本という異国で育ち、ふたつの大戦に翻弄され、3回もその名が変わる数奇な生涯を送った「こうせい丸」。

 

船の生涯は人の生涯に似ているところもありますが、こんな数奇な人生を送る方はなかなかいないのではないかと思う人生ならぬ「船生」を生きた船を取り上げ、本年のブログを終わります。

 

戦後の「こうせい丸」の写真

(引用:HP「日本クルーズ&フェリー学会」名船発掘 Vol.2 「ラメール」 1997.5-2003.11

    /74 こうせい丸(英国軍艦から大変身))

 

本年も、一般向けしない拙い内容のブログにも関わらず、ご覧いただきました方々、また「いいね」やコメントを頂きました方々、ありがとうございました。

来る令和6年、皆様にとってより良い一年になりますよう祈念いたします。

良いお年をお迎えください。

 

【参考文献】

 Wikipedia(英語版含む) および

 

 

 

 

 「大阪鐵工 1934年12月号」大阪鐵工所

  ※国会図書館デジタルコレクション:書誌ID:000000002595

 

【Web】

 HP「大日本帝国海軍 特設艦船DATABASE」戸田S.源五郎氏

 

 HP「Naval Data Base」

 

 HP「日本クルーズ&フェリー学会」

 ※名船発掘 Vol.2 「ラメール」 1997.5-2003.11

   74 こうせい丸(英国軍艦から大変身)