今日は、奥様と娘と三人で朝から泉佐野漁港の「泉佐野漁協 青空市場」を訪れ、海産物のお買い物。
殻付の牡蠣と舌平目を購入したものの、発泡スチロールのトロ箱を持っていくのを忘れたため、すぐに帰宅。
その後、岸和田市の道の駅「愛彩ランド」を訪れ、弁当を購入し昼御飯を食べました。
「愛彩ランド」の噴水のある池
帰宅後は疲れてしまい、3人揃ってお昼寝、一日が終わってしまった…。
船の話に戻ります。
いつも使っている「戦時艦船喪失史」をめくり、本文の最後に載っている船を調べます。
その船は「第六金山丸」、鶴丸汽船所属の873総トンの船で、
『昭和20年8月15日N41・23-E129・46(北朝鮮の東岸・漁大津港)にて空爆を受け沈没。』
となっています。
では、この船はどんな船なのか。
ネットで検索すると、これまたいつも利用しているHP「大日本帝國特設艦船DATABASE」に記載がありました。
どうも、第二次戦時標準船の2E型の1隻のようです。
昭和19年9月16日に川南工業深堀造船所で進水し、同年9月30日に竣工しています。
2E型の戦時標準船はディーゼル機関、焼玉機関、レシプロ機関の3種類の機関を搭載したものが存在するようですが、HP「なつかしい日本の汽船」によると、本船は焼玉機関を搭載したもののようです。
【要目(2E型戦時標準船)】
【要目】
総トン数:877トン、重量トン数:1,567トン、
長さ:60.0m、幅:9.50m、深さ:5.45m
機関:焼玉機関×1、推進軸:1軸
出力:(最大)400馬力(定格)380馬力、
速力:(最高)9.0ノット(航海)7.0ノット
※引用:本邦建造船要目表(1868-1945)」日本船用機関学会、
船用機関調査研究委員会、1976年5月、海文堂、P.270
2E型戦時標準船
(引用:「戦時造船史」小野塚一郎、1989年12月、今日の話題社、P.2)
戦時標準船は、戦争継続のため量産性の向上と資材節約を優先した設計により、工程や構造、艤装等を大幅に簡素化し、耐久性、航海速力、信頼性などを犠牲にして建造された船舶です。
戦況の悪化に伴う船舶被害の増加に造船が追いつかなくなり、さらなる建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなり、昭和17年末から設計が始められ、量産船は昭和18年9月から順次竣工し、終戦までに計471隻が建造されました。
ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能でしたが、徹底した簡素化を目指して二重底や隔壁の廃止し、また簡略化のため直線を多用して抵抗が大きく速力や燃費の面で不利な船型となり、品質が低く故障しやすい低出力の機関と粗悪な燃料により計画速度すら出すことができず、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり「粗製濫造」と言われていました。
川南工業深堀造船所の配置図
ブロック工法のための流れ作業ができるよう、工場内の配置がなされている
(引用:「戦時造船史」小野塚一郎、1989年12月、今日の話題社、P.463)
竣工後の「第六金山丸」は、昭和19年12月に第69次海軍指定船に指定され、帝国海軍へ徴傭され運用されますが、戦局の悪化から低性能の小型船舶は南洋や大陸方面への輸送への使用は難しく、日本海方面で使用されていたと推測されます。
そして、終戦の日である昭和20年8月15日に朝鮮半島・咸鏡北道の漁大津港で空爆により沈没しています。
朝鮮総督府鉄道・咸鏡線の「漁大津」駅
(引用:「大東亜鐵道案内圖・共栄圏の部」1943年12月、日本名所図会社)
終戦の日である昭和20年8月15日には、朝鮮半島・現北朝鮮の南部・元山市において海防艦「干珠」が触雷のため自沈しており(終戦記念日と74年前の今日・最後の戦没艦となった海防艦「干珠」)、大東亜戦争において最後に戦没した帝国海軍艦艇、民間船舶ともに朝鮮半島(現・北朝鮮)におけるものでした。
なお、運行会社の鶴丸汽船は、福岡県若松(現・北九州市若松区)で大正10年8月に石炭輸送を主な業務とする鶴丸海運として設立されたもので、鶴丸商店と改称した後、昭和13年8月に鶴丸汽船に改称しています。
そして、昭和39年10月に鶴丸海運に改称し、海運のみでなく陸運や港湾、倉庫などを行う総合物流企業として今日に至っています。
鶴丸海運のロゴ
(引用:HP「鶴丸海運」)
【参考文献】
Wikipedia および
【Web】
HP「大日本帝國特設艦船DATABASE」(戸田S.源五郎氏)
HP「なつかしい日本の汽船」(長澤文雄氏)
HP「鶴丸海運」