舞鶴引き揚げの日・最初に到着した「雲仙丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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舞鶴市では、10月7日は「舞鶴引き揚げの日」として条例で制定しており、今日10月8日には平和記念式典が開かれた、とニュースで見ました。

 

舞鶴引揚記念館のHPによると「第二次大戦後の満洲やシベリア抑留のからの引揚者を迎えたまちとして、戦争の惨禍によって生じた抑留と引き揚げを後世へ伝え、平和のメッセージを世界へ発信するため」に制定したとのこと。

 

「舞鶴引き揚げの日」ロゴマーク(引用:HP「舞鶴市」)

 

では、なぜ10月7日かというと、朝鮮半島・釜山から舞鶴港へ最初の引き揚げ船「雲仙丸」が入港した日であったから、とのことです。

 

では、この「雲仙丸」とはどんな船なのか、調べてみました。

 

「雲仙丸」は、日本郵船が門司-大連の航路に投入する貨客船として三菱横浜船渠で建造され、昭和17年3月に進水、昭和17年10月に竣工しています。

【要目】

 総トン数:3,140トン、積貨重量:1,991トン、

 垂線間長:92.0m、幅:14.50m、深さ:7.40m 

 機関:レンツ機関×1、主缶:円缶×2、推進軸:1軸

 最高出力:3,072PS、最高速力:15.85ノット

 ※引用:「本邦建造船要目表(1868-1945)」

     日本船用機関学会、船用機関調査研究委員会、

     1976年5月、海文堂、P.178-179

 

日本郵船・貨客船「雲仙丸」

(引用:「世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史」1984年9月、海人社、P.144)

 

「雲仙丸」が採用したレンツ機関は、レシプロ機関の一種で、2組の二段膨張レシプロ機関のシリンダを組み合わせ、蒸気配気弁にポペットバルブというバルブを配置しカムで駆動ている所が特徴の機関です。福二段膨張式レシプロ機関とも呼ばれています。

 

レンツ機関の外観

(引用:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会、1977年10月、原書房、P.95)

 

「雲仙丸」は大東亜戦争中の竣工となったため、当初予定の門司-大連航路に就くことはなく、門司-上海航路に投入されますが、昭和18年の中頃になると上海航路の安全性が保てなくなり、「雲仙丸」は新潟-羅津航路に移ります。

昭和18年10月1日には日本海のほぼ中央で雷撃を受け、右舷中央部に命中します。幸いなことにこの魚雷は不発で、機関室へのわずかな浸水と石炭の流出程度の軽い被害で済みました。

 

昭和20年6月には敦賀から山口・角島経由で朝鮮半島に向かう際、米軍機「B-29」の来襲を受け6月23日の夜に鳥取・境港へ退避します。

翌朝・境港を出港する際、前夜の「B-29」が敷設していった機雷に触れ船尾を損傷しプロペラシャフトから進水してしまいます。

 

境港付近の現在の航空写真(引用:Wikipedia)

(BehBeh - SakaiminatoCity.jpg (Transferred from Japanese Wikipedia), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3464856による)

 

「雲仙丸」は浸水は食い止められたものの富山の日本海船渠で修理を受けることになり、富山へ向かいますが、途中の石川・羽咋で座洲してしまいます。

 懸命な離洲作業の甲斐あって約2週間後には離洲に成功し修理を受け復帰、終戦時には敦賀-清津-羅津航路に就いていました。

 

昭和22年7月の日本海船渠(現・新日本海重工業)の空中写真

(引用:国土地理院地図・航空写真閲覧サービス:USA-M203-A-7)

 

戦後は引揚輸送に就くこととなり、舞鶴港への初の引揚船として昭和20年10月7日に朝鮮・釜山からの引揚者2,100名を乗せて舞鶴へ到着します。

昭和21年12月5日には、ソ連に占領された樺太・真岡からの引揚者第一陣928名を乗せて函館港に入港するなど、度々記録に登場します。

 

引揚輸送で舞鶴港に帰還した人々

(引用:「引揚港 舞鶴の記録」1985年10月、舞鶴市、P.10) 

 

引揚輸送終了後の「雲仙丸」は、釧路-東京間の航路に就航しますが、昭和29年8月には運輸省航海訓練所に譲渡され練習船「銀河丸(初代)」となります。

また、機関がレンツ機関からディーゼル機関に換装されます。

【要目】

 総トン数:3,171トン、積貨重量:1,991トン、

 長さ:92.54m、幅:14.0m、深さ:7.4m 

 機関:ディーゼル機関×1、推進軸:1軸

 最高出力:2,100PS、最高速力:14.12ノット、生徒数:128名

 ※引用:「船舶百年史 後篇」船舶百年史刊行会、1958年5月、有明書房、P.139)

 

運輸省航海訓練所・練習船「銀河丸(初代)」

(引用:「船舶百年史 後篇」船舶百年史刊行会、1958年5月、有明書房、P.139)

 

そして昭和48年1月には、新設された海洋技術開発学校で係留練習船となとなり、昭和49年5月には、係船されていた鹿児島・上甑島から香川・多度津町の宮地サルベージ多度津船舶解体場へ曳航され、解体され姿を消しました。

 

「雲仙丸」では4,745名の引揚者が帰国しており、また舞鶴には66万人の引揚者が帰国しています。この歴史も現代では忘れられようとしていますが、シベリア抑留と合わせて現代史の一ページとして語り継がれるべきものだと思います。

 

貨客船として誕生したものの、当初の航路に就くことができず、大東亜戦争終戦直前に大きな損傷を受け、戦後は引揚輸送から航海訓練所の練習船となり、これまた約30年という数奇な一生を終えた「雲仙丸」改め「銀河丸」、調べてみて興味を引いた船でした。

 

戦後の引揚輸送(復員輸送)について、今一度振り返る機会となった「舞鶴引き揚げの日」にちなんだ船を取り上げてみました。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

 

【Web】

 HP「舞鶴市」

 HP「国土地理院地図・航空写真閲覧サービス」