捕虜輸送の貨物船「りすぼん丸」被雷・沈没す | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

10月になりましたね。

昨日の帰宅時に、大阪駅とグランフロント大阪をつなぐデッキの上から見た夕焼けです。

陽が沈んだ直後の空は何とも言えない色になりますね。

 

令和4年9月30日・18時過ぎの梅田の空

 

今回は、昭和18年の10月1日から2日に起きた事件に関する船を取り上げてみます。

 

今回の主役は、日本郵船の貨物船「りすぼん丸」です。

「りすぼん丸」は、ニューヨーク航路の主力貨物船として計画された1万載貨重量トン級の大型貨物船で、横浜船渠で大正8年10月に起工され、大正9年7月に竣工しています。

【要目】

 総トン数:7,038トン、積貨重量:10,494トン、

 垂線間長:135.6m、幅:17.7m、深さ:10.4m 

 機関:三連成レシプロ機関×2、主缶:円缶×4、推進軸:2軸

 出力:4,684PS、最高速力:14.50ノット

 ※引用:「本邦建造船要目表(1868-1945)」

     日本船用機関学会、船用機関調査研究委員会、

     1976年5月、海文堂、P.112-113

 

日本郵船・貨物船「りすぼん丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - りすぼん丸 - 全日本海員組合, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24606187による)

 

「りすぼん丸」は就役後はニューヨーク航路の主力船のひとつとして活躍します。

しかし、昭和5年以降に新型の優秀船が続々と就役するようになり、日本郵船でも昭和9年に「長良丸」型(N型)貨物船が就役すると、インドのムンバイ航路やヨーロッパ航路に就くようになります。

 

そして、昭和16年11月に帝国陸軍に徴傭され、昭和16年12月24日にはルソン島ラモン湾への上陸作戦に参加しています。

 

昭和17年2月2日には石川・金沢の第21師団を乗せて護送船団に参加、台湾・馬公から仏印(現・ベトナム)のハイフォンへ向かう際、馬公出港直後に帝国海軍が敷設した防潜網へ入りこみ付属機雷が爆発して大破してしまいます。

馬公警備府へ曳航して応急修理した後、香港へ送られ香港造船所で本修理を受け、昭和17年9月18日に修理が完了します。

 

当時の日本政府は、南方作戦で捕虜となった連合国軍の兵士を日本本土での労務に従事させることを決めており、捕虜の本土移送は昭和17年10月頃から本格化していました。

 

また、この時香港俘虜収容所では英国軍を中心として約8,700名が収容中であり、「りすぼん丸」は香港の戦いで降伏した英国軍の兵士ら1,816人の捕虜と、少尉を指揮官とし衛生兵2人を含む護送要員26人、内地帰還部隊その他便乗者を含め帝国陸軍の将兵756人、鉄スクラップ400トン、タングステンなどの鉱石、鹵獲高射砲その他物資総計1,676トンを乗せて福岡・門司を経由し広島・宇品へ向かうこととなります。

 

香港に入城する帝国陸軍(引用:Wikipedia)

(Mainichi Newpaper, Japan - booklet of "The Battle of Hong Kong- Hong Kong under the camera of the Japanese Army" Exhibition, Hong Kong Museum of History, 2002, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4167972による)

 

昭和17年9月27日に香港を出港し順調に航海していきますが、10月1日午前7時15分に現・中華人民共和国浙江省の舟山群島沖で米国海軍の潜水艦「グルーパー(SS-241)」の雷撃を受けます。

 

米国海軍・潜水艦「グルーパー(SS-241)」

(不明 - 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2577969による)

 

この時、「りすぼん丸」には魚雷2発が命中し、1本は不発でしたが右舷船尾の推進軸付近に命中したもう1発が爆発し推進軸伝いに機関室が浸水、舵も破壊されて航行不能になってしまいます。

 

それでも当初は沈没するには時間がかかると判断され、捕虜監視兵や船員を除く日本人乗船者は他の船に移されたものの、捕虜は乗船部隊指揮官と相談した護送隊の少尉の指示で第1~第3船倉へ戻され、船倉口はハッチを閉じた上にターポリン(覆い布)まで被せて封鎖されることとなります。このとき、当時の船長経田茂氏はこの措置に反対していますが、護送指揮官の命令により強行されます。

 

10月1日の21時前から「りすぼん丸」の海岸への曳航が開始されますが、日付が変わった10月2日の朝には、浸水は船体後部から船体中央の第3船倉まで広がり沈没が現実味を帯びてきます。

 

監視兵へ苦情を訴えても無視され続けた捕虜は、午前8時頃から脱出を始めます。これを見た監視兵一部は捕虜に対して発砲を始めてしまいます。また、第3船倉の捕虜は封鎖されたままで午前9時7分に「りすぼん丸」は沈没します。

 

日本側は、「りすぼん丸」の撃沈を異例の大きな報道し、「朝日新聞」などでは非人道的な無差別違法攻撃と論評し、米国への不満を述べた遭難捕虜の発言を取り上げるなど、プロパガンダに利用しています。

 

当時の書籍の記事

(引用:「大東亜戦争記録画報. 後篇」英文大阪毎日学習号編輯局 編、1943年6月、大阪出版社、P.102-103)

 

終戦後、英国軍は「りすぼん丸」事件における日本側の責任についてBC級戦犯として香港軍事法廷で訴追し、経田船長が捕虜虐待の罪で懲役7年の有罪判決を受け、香港刑務所で5年間近く服役し、巣鴨拘置所に移送された後、善行賞により懲役5年に減刑となり釈放されています。

 

乗船した陸軍部隊指揮官と護送指揮官の少尉はいずれも終戦前に戦死していたため、起訴されなかったなかで、帝国陸軍の命令に反対したものの従わざるを得なかった船長の胸の内はいかばかりか、と思います。

 

捕虜の方々の扱いについては、日露戦争の浜寺俘虜収容所(浜寺俘虜収容所・ロシア兵墓地を訪ねて 附・敷設艦「津軽」)や、第一次世界大戦の坂東俘虜収容所(令和3年8月7日・阿波鳴門への旅)を取り上げたことがありますが、それまでは紳士的・模範的な扱いをしていた日本も、日華事変・大東亜戦争ではその扱いが変わってきています。

 

また、ロシアのウクライナ侵攻においても、捕虜の扱いについては度々ニュースで取り上げられています。

 

攻撃を受けるウクライナ・アゾフスタリ製鉄所(引用:Wikipedia)

(Chad Nagle - https://www.flickr.com/photos/16936128@N06/15555902821/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=117163768による)

 

大東亜戦争では、「りすぼん丸」以外にも捕虜輸送中に撃沈された船舶が少なからず存在しますし、広島・長崎の原爆投下では米国の捕虜が犠牲になっています。

戦争は、捕虜として一度は生き残った人へも犠牲を強いますし、「りすぼん丸」の経田船長のように軍人に強要された民間人へも犠牲を強います。そして、一般民衆の上にも多大な犠牲を強います。

 

今のウクライナの状況を見ると胸が痛みますが、このような状況が将来の日本に起こらないよう、憲法9条に頼るのではなく、現実的な対応策を真剣に考える時期に来ていると思います。

 

日本郵船・貨物船「りすぼん丸」

(引用:「世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史」1984年9月、海人社、P.179)

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

【Web】

 HP「国立国会図書館 デジタルコレクション」