「金山城 伊達・相馬 鉄砲館」の開館と同時代の軍船について | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

本日、福島県伊具郡丸森町に火縄銃を中心とした博物館「金山城 伊達・相馬 鉄砲館」が開館しました。

館長が長年かけて収集された貴重な火縄銃や武具などが展示されています。

興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。

 

火縄銃が伝来し普及した戦国時代から江戸時代初期にかけて、陸上だけでなく海上でも戦闘が行なわれています。

戦国時代では、瀬戸内の村上水軍・毛利水軍や、織田軍に属する志摩(現・三重県)の九鬼水軍などが有名ですね。

この頃の軍船は、どのようなものだったのか、簡単に調べてみました。

 

まずは、当時の最大級の軍船で、近代の艦種でいうと「戦艦」に当たるものを「安宅船」と言います。

艪の数が50挺から160挺程度と多数装備していますが、巨体で重厚な防御を施しているため速度は出ません。

 

それでも戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りが利き、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができました。

 

船の大きさは、小さいものでは500石積から大きいもので1000石積以上の規模になっています。

なお、1石が180リットルのため、水の比重で計算すると180kg、500石は90トン、1000石で180トンとなります。

 

『肥前名護屋城図屏風』に描かれている「大安宅船」(引用:Wikipedia・一部加工)

(不明 - 『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県県立博物館蔵、桃山時代作成)より一部引用, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38960422による)

 

 

村上水軍の「安宅船」の模型(引用:Wikipedia)

(Alex K - http://uk.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Murakami_suigun-boyovyi_korabel.jpg, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22853875による)

 

当時の大型の和船に共通した船首上面が角ばった形状で、幅広の船体を持ち矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっています。

兵装として、江戸時代の大安宅船では500匁級の大砲3~4門、鉄砲50挺程度を搭載していました。

 

もともと速度の出ない大型船であるため船速は求めず、楯板が厚く張られて重厚な防備とされているのは「戦艦」に共通するところがあります。

 

特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があげられ、その構造と重厚さから、安宅船は「海の城」とも呼ばれていました。帝国海軍の戦艦の高い艦橋のような感じですね。

 

 

次に、性能的には安宅船より攻撃力や防御力に劣りますが、小回りが利き速力が出るため機動力に優れる船を「関船」と言い、近代の艦種でいうと「巡洋艦」に相当します。

「関船」の名称の由来は、この種の船が機動性に優れていることから、航行する他の船舶に乗りつけて通行料を徴収する水上の関所としての役割に使用されていたことによる、とされています。

 

文禄・慶長の役の「関船」

(引用:「日本の船 和船編」安達裕之、1998年10月、日本海事科学振興財団、P.57)

 

船の上部構造構は安宅船と同様ですが、艪の数が50挺前後のもので、船首が1本の木材で構成された「一本水押し」の尖った船首で、水の抵抗を小さくすることで速力を得ています。

兵装としては、江戸時代の艪の数が50挺のもので大砲1門、鉄砲18挺程度と推定されています。

 

 

さらに小型の船で、近代の艦種で言うと「駆逐艦」に相当するものが小型の早船(関船)という意味で「小早」と呼ばれていました。

 

将軍の御召小早「麒麟丸」の模型

(引用:「日本の船 和船編」安達裕之、1998年10月、日本海事科学振興財団、P.57)

 

「小早」は概ね艪の数が40挺以下で、船体が小さく上部構造物もない低い船型で、兵装は鉄砲8挺程度、防御も半垣造りとよばれる足を隠す程度の低い側壁(垣立)のみの軽装で、「ブリキ艦」と呼ばれた駆逐艦の設計思想にそっくりです。

織田家の九鬼水軍などでは戦闘での役割は補助的で、その軽快な機動力を活かして偵察や伝令などの用途に用いられましたが、毛利水軍や村上水軍などは焙烙火矢や投げ焙烙を主要武器として用いていたため、小型・快速の小早が主力として使用されていました。

 

 

戦国時代が終わると、寛永12年に幕府から武家諸法度の改正がなされ、第17条に「五百石以上之船停止之事」として500石以上の大船の建造が禁止されます。

この規定の下付によるここと、また平時の海上取り締りには「安宅船」よりも小さく快速の「関船」のほうが使い勝手に優れることから、「安宅船」は廃止され「関船」が最も大型の軍船となります。

 

西国諸大名が参勤交代に用いる御座船にも、豪奢な装飾が施された関船が用いられるようになり、「関船」の性格も変化していきます。

なお、幕府も将軍の御座船として関船「天地丸」を保有していました。

【要目(「天地丸」)】

 排水量:(推定)100トン、全長:34m、型幅:7.6m、

 速力:(巡航)3.1ノット、(最高)6.8ノット

 16反帆、小艪76挺立

(引用:「日本の船 和船編」安達裕之、1998年10月、日本海事科学振興財団、P.68)

 

明治7年に撮影された旧幕府御座船「天地丸」

(引用:「日本の船 和船編」安達裕之、1998年10月、日本海事科学振興財団、P.68)

 

このような状況が幕末の西洋式帆船が輸入されるまでの間に続くこととなります。

 

簡単ではありますが、「金山城 伊達・相馬 鉄砲館」の開館を祝して、「火縄銃の時代」である戦国時代後期から江戸末期にかけての軍船について、簡単に取り上げてみました。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 「日本の船 和船編」安達裕之、1998年10月、日本海事科学振興財団