返還50年 「沖縄」の名を持つ日米の艦艇 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は5月15日、沖縄返還から50周年です。

この50年、米軍基地問題などの諸問題を抱えながらも、日本の中の沖縄として歩んできました。

日本復帰50周年に当たり、メディアでも沖縄を取り上げることが多くなっていますね。

 

ですが、当ブログでは「沖縄問題」について、取り上げるつもりはありません。が、今回は「沖縄」をキーワードにしてみたいと思います。

 

「沖縄」の名を冠した艦艇としては、海防艦「沖縄」が存在します。

海防艦「沖縄」は、「鵜来」型海防艦の2番艦として昭和18年12月に日本鋼管鶴見造船所で起工され、昭和19年8月に竣工し、本籍を舞鶴鎮守府とし呉防備戦隊に編入されます。

【要目】

 基準排水量:940トン、全長:78.77m、水線幅(最大):9.10m、

 吃水(公試状態):3.06m

 機関:艦本式22号10型ディーゼル機関×2、推進軸:2軸、

 出力:4,200馬力、速力:19.5ノット、乗員数:150名

 兵装:12cm45口径連装高角砲×1、12cm45口径単装高角砲1、

     25mm3連装機銃×2、94式爆雷投射機×2、

     3式爆雷投射機×16、爆雷投下軌条×2、95式爆雷×120、

     93式水中聴音機×1、93式水中探信儀×1

 ※引用:世界の艦船「日本海軍護衛艦艇史」増刊第45集、No.507、

       1996年2月、海人社、P.25

 

海防艦「沖縄」(右)と「第九号」輸送艦(左)

(引用:「日本海軍全艦艇史 下巻」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.791)

 

「沖縄」は昭和19年10月に海上護衛総司令部隷下の第一海上護衛隊に編入され、海防艦「占守」らとともにモマ04船団を護衛し福岡・門司を出港、途中の上海で貨客船「浅間丸」を船団に加え昭和19年10月25日にフィリピン・リンガエン湾に到着します。

なお、この日はレイテ沖海戦・スリガオ海峡で戦艦「扶桑」「山城」が、エンガノ岬沖で航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」などが撃沈された日に当たります。

 

「沖縄」はマニラに移動後、南西方面部隊の指揮下に入り、レイテ島攻防戦にともなう増援輸送「多号作戦」に従事することになり、10月31日朝びマニラを出港、11月1日夕刻にはレイテ島西岸のオルモック湾に到着、対空戦闘をおこないながらも揚陸作戦はほぼ成功し、12月4日にはマニラに帰投します。

 

昭和19年11月5日のマニラ大空襲では、「沖縄」は損傷を受けず、11月8日には再度オルモック湾へ向かい、11月11日にマニラに帰投しますが、13日には再度マニラで空襲に遭遇します。

 

翌14日には船団護衛のためブルネイ島へ向けて出航しますが、18日にパラワン島沖で被爆損傷し、シンガポールの第百一海軍工作部で修理を受けます。

昭和19年12月26日にヒ84船団を護衛しシンガポールを出港、昭和20年1月13日に門司に帰着します。

 

「沖縄」は呉海軍工廠で整備を受けた後、2月に台湾への船団護衛を行い、その後は日本海~北支沿岸の船団護衛に従事します。

 

昭和20年6月19日には、七尾湾「第二百七号」「第六十三号」「第七十五号」「第百五十八号」の角海防艦と共に、米国海軍潜水艦「ボーンフィッシュ (SS-223)」を撃沈しています。

 

進水する米海軍潜水艦「ボーンフィッシュ (SS-223)」(引用:Wikipedia)

(http://www.navsource.org/archives/08/08223.htm, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2578003による)

 

そして昭和20年7月30日、「沖縄」は舞鶴で空襲を受け、被爆・沈没しました。この空襲で乗員1名が戦死し、2名が負傷しています。

 

昭和20年7月30日・空襲を受ける東舞鶴港

(引用:「Aircraft Action Report No. 34 1945/07/30 : Report No. 2-d(24): USS Cowpens, USSBS Index Section 7」:国会図書館デジタルコレクション)

 

戦後、「沖縄」は浮揚され、昭和23年2月から9月にかけて飯野産業舞鶴造船所(旧・舞鶴海軍工廠)で解体され、姿を消しました。

 

また、米国海軍では大規模な上陸作戦を行った激戦地の名前を持つ艦艇が建造されており、「オキナワ」の名を持つ艦艇も存在しています。

 

「オキナワ(CVE-127)」は「コメンスメント・ベイ」型航空母艦の23番艦として、ワシントン州タコマのトッド・パシフィック造船所で昭和20年5月に起工され、翌6月に「オキナワ」と命名されています。

【要目】

 基準排水量:11,373トン、全長:169.9m、幅:9.8m、吃水:9.8m

 機関:タービン機関×2、推進軸:2軸

 出力:16,000馬力、速力:19ノット、乗員数:1,066名

 兵装:12.7cm単装両用砲×2、40mm4連装機銃×3、

     40mm連装機銃×12、20mm機銃

 搭載機:34機

 ※引用:世界の艦船「新版 アメリカ航空母艦史」増刊第51集、

       No.551、1999年4月、海人社、P.150

 

米海軍航空母艦「コメンスメント・ベイ」(引用:Wikipedia)

(U.S. Navy - U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.488.035.005, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12788229による)

 

「コメンスメント・ベイ」型は、船団護衛用の小型の航空母艦(護衛空母)で、それまでの実績を取り入れ、タンカーをベースとするものの、主機をシフト配置するなどダメージコントロールを考慮した設計となっています。

 

「オキナワ((CVE-127)」は、戦況の進展に伴い過剰兵力と見られ、進水前の昭和20年8月11日に建造契約が取り消され、未成に終わっています。

 

その後、昭和35年4月に「イオ-・ジマ」型強襲揚陸艦の2番艦がペンシルベニア州のフィラデルフィア海軍造船所で起工されます。昭和36年8月に進水し「オキナワ(LPH-3)」と命名され、昭和37年4月に竣工・就役します。

【要目】

 軽荷排水量:10,700トン、満載排水量:18,300トン、

 全長:180.4m、水線幅:25.6m、最大幅:31.7m、吃水:7.9m

 機関:ウェスチングハウス式タービン機関×1、推進軸:1軸

 主缶:コンバッション・エンジニアリング缶×2

 出力:22,000馬力、速力:23ノット、乗員数:685名、揚陸部隊:約2,000名

 兵装:7.6cm50口径連装速射砲×4

 搭載機:ヘリコプター28~32機

 ※引用:世界の艦船「アメリカ揚陸艦史」増刊第76集、

       No.669、2007年1月、海人社、P.114

 

昭和44年の米国海軍・強襲揚陸艦「オキナワ(LPH-3)」

(引用:Wikipedia・ポルトガル語版)

(Por U.S. Navy - Official U.S. Navy photo NH 107670 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, Domínio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39924659)

 

「イオー・ジマ」型の強襲揚陸艦は、米国で初めて専用に設計された強襲揚陸艦で、輸送ヘリコプター30機程度と海兵1個大隊の約2,000名とその軽装備品を一度に輸送できる揚陸艦として7隻が建造されました。

艦名は第二次世界大戦および朝鮮戦争で大規模な上陸作戦が行なわれた地名から「イオー・ジマ」「オキナワ」「ガダルカナル」「インチョン」など、いかにも戦勝国らしい艦名が採用されています。

 

「オキナワ(LPH-3)」は、昭和40年4月のドミニカ内戦で医療救援船として派遣された後、昭和42年1月に太平洋艦隊に配属され、同年3月からベトナム戦争に参戦、ベトナム水域で共産ゲリラに対してヘリコプターによる攻撃を行う海兵隊部隊の移動基地として機能します。

 

また、変ったところでは昭和43年4月にアポロ6号の、昭和46年8月にはアポロ15号のカプセル回収任務に当たっています。

 

「オキナワ(LPH-3)」の兵装は、昭和40年代後半には7.6cm連装砲2基を撤去しシー・スパロー単SAM8連装発射機2基に換装され、昭和50年代後半には備砲すべてと単SUM発射機をすべて撤去し、20mm

CIWS 2基を装備しています。

 

昭和56年の「オキナワ(LPH-3)」(引用:Wikipedia・フランス語版)

(Par Sgt. Taylor — U.S. DefenseImagery photo VIRIN: DM-SN-82-03149, Domaine public, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28969135)

 

「オキナワ(LPH-3)」は、平成4年12に退役・除籍され、米国運輸省海事局国防予備船隊へ転籍しカリフォルニア州サスーン湾の係留地で保管されますが、平成14年6月に太平洋潜水艦隊の演習、SINKEX で標的艦として南カリフォルニアの沖合、水深3,700mの海域に海没処分され波間に消えていきました。

 

平成2年の「オキナワ(LPH-3)」(引用:Wikipedia・フランス語版)

(Par USN — U.S. DefenseImagery photo VIRIN: DN-SC-04-03400, Domaine public, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28969251)

 

沖縄は大東亜戦争で地上戦が行なわれ、多数かたが犠牲となりました。

総務省のHPによると、「沖縄の援護のあゆみ」1996年 沖縄県生活福祉部の出典として次の記載があります。

 1.沖縄県出身軍人軍属:28,228名

   ※厚生省から送付された戦没者名簿に掲載された数
     及び未帰還者調査票により死亡広報発令者数

 2.他都道府県出身軍属:65,908名

   ※沖縄県護国神社合祀者数

 3.一般県民:94,000名

   ※昭和19年の人口と昭和21年の人口を勘案して、

     一般県民約94,000人と推計した数

 4.日本における全戦没者数:200,656名

 5.米軍:12,520名

   ※米軍政府資料

 

そして米軍の統治が昭和47年まで続いたのち、日本に復帰して50年を経ました。

本日の報道では、米軍専用施設の面積割合は沖縄が70%を占めているという報道が目立ちます。

 

Wikipediaによると、実際の数字は下記の通りです。

○米軍専用施設の面積割合(2020年)は

   沖縄が70.27%、沖縄以外が29.73%

○共同使用施設を含む面積割合(2020年)は

   沖縄が19.09%、沖縄以外が80.90%

○共同使用施設を含む都道府県面積(国土)に

  対する割合(2020年)は

   沖縄が8.23%、沖縄以外が0.21%

○在日米軍軍人の人口(2008年)は

   沖縄が22,772人、沖縄以外が22,078人

○在日米軍軍人関係者(軍属・家族含む)の人口(2008年)は 

   沖縄が44,963人、沖縄以外が49,254人

 

これらの数字についてコメントは差し控えますが、実態の一部を示すにすぎません。

本日のマスコミは「沖縄復帰50年を祝して」とは言えない論調となっています。それもある一面

から見たら正しいことだと思います。

それでも、当時も今も国内および国際情勢、日米の関係などを多角的に見たうえで、国民それぞれが理解・解釈すべきことだと思いますし、そのための情報は良い悪いにかかわらず同じ土俵に載せるべきだと思います。

 

と、とりとめのないことを最近の報道を見ながら思う今日この頃でした。

沖縄問題について論じるつもりはない、と言いながら少し書いてしまいました。スミマセン。

 

【参考文献】

 Wikipedia(英語版・フランス語版・ポルトガル語版含む)

 

 

 

 

【Web】

 HP「国立国会図書館デジタルコレクション」