軍艦防波堤となった駆逐艦「柳」・間違われる駆逐艦「柳」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

大東亜戦争後、防波堤として利用された艦艇が15隻あります。

当ブログでも、以前兵庫・竹野港の防波堤となった一等駆逐艦「春風」(戦後に地味な武勲を讃えられた駆逐艦「春風」)と、福島・小名浜港の防波堤となった一等駆逐艦「澤風」(航空隊の訓練、対潜掃討、戦後は防波堤として活躍した駆逐艦「澤風」)を取り上げました。

 

竹野港の防波堤となった「春風」の船体

(引用:「京都府」HP、漁村・漁港の紹介 京丹後市編)

 

なかでも有名なのは、北九州市の若松港には「軍艦防波堤」だと思います。ここでは駆逐艦3隻の船体が防波堤として利用されました。

ここでは、戦艦「大和」の沖縄への特攻作戦に同行した一等駆逐艦「涼月」と「冬月」の2隻は比較的有名だと思います(昭和20年4月7日・戦艦「大和」最期の日)。

 

終戦後に佐世保・相ノ浦港に係留された一等駆逐艦「涼月」(引用:Wikipedia)

(米国陸軍航空隊, United States Army Air Forces - 学研 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.23 『秋月型駆逐艦』 P14, Gakken Rekishi Gunzo Vol.23 "Akizuki class destroyers", パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15773379による)

 

今回取り上げるのは、もう一隻の駆逐艦「柳」について取り上げてみたいと思います。

一部の資料では駆逐艦「柳」として昭和20年1月に竣工した「松(二代)」型(丁型)一等駆逐艦の「柳(二代)」を取り上げていることがありますが、この防波堤に利用されたのは、初代の「柳」です。

初代の二等駆逐艦「柳(初代)」は、大正初期の八四艦隊整備案の中型駆逐艦として、4隻建造された「桃(初代)」型の4番艦で、大正5年10月に佐世保海軍工廠で起工され、翌6年5月に竣工しています。

【要目(竣工時の「桃」】

 基準排水量:755トン、全長:88.4m、水線幅:7.7m、吃水:2.4m

 主機:ブラウン・カーチス式直結タービン機関×2(「柳」・「桃」は艦本式)、

 主缶:ロ号艦本式水管缶×4(重油専焼×2、重油・石炭混焼×2)、推進軸:2軸

 出力:16,700馬力、速力:31.5ノット、乗員数:109名

 兵装:12cm40口径単装砲×3、8cm40口径単装砲×2、6.5mm単装機銃×2、

     45cm連装魚雷発射管×2

 ※出典:世界の艦船「日本駆逐艦史」増刊第34集、No.453、1992年7月、海人社、P.50

 

二等駆逐艦「柳(初代)」

(引用:「日本海軍全艦艇史 下巻」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.533)

 

「桃」型駆逐艦は、それまでの中型駆逐艦の欠点であった凌波性の向上のため、船首楼甲板の高さを取り、艦首の艦艇から甲板への広がりであるフレアを大きくするなど、外洋での航行性能に改良が図られています。

 

「柳」は竣工早々の大正6年8月に同型艦4隻で編成された第十五駆逐隊として、第一次世界大戦中の地中海へ派遣され、英国政府より依頼を受けた船団護衛任務に就いています。

その中で、僚艦「檜」とともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた仏国の輸送船「ラ・ロアール号」の乗組員435名を救助しています。

また、昭和7年の第一次上海事変では、揚子江水域の作戦に参加しています。

 

第一次上海事変前後の二等駆逐艦「柳(初代)」

(引用:「日本海軍全艦艇史 下巻」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.533)

 

「柳」は昭和15年4月1日に除籍され、佐世保海兵団の練習船となり、佐世保で終戦を迎えます。

そして「柳」は、「冬月」「涼月」とともに、昭和23年6月から7月にかけて若松港で船体内部に岩石や土砂が詰め込まれてコンクリートで固定され、「軍艦防波堤」として設置されます。

 

昭和23年11月・若松港の軍艦防波堤

上から「冬月」「涼月」「柳」

(引用:「国土地理院 地図・航空写真閲覧サービス」USAwide R424-7)

 

昭和36年9月の台風により内部の土砂が大きく流失したため、翌年の復旧工事のさい「涼月」「冬月」はコンクリートで完全に埋設されましたが、「柳」は船体上部の原形を約80mにわたり留めた状態とされました。

 

修復工事中の「柳」の船体

(引用:HP「日本船舶海洋工学会 デジタル造船資料館・第1回ふね遺産

「若松港軍艦防波堤 ~ 礎:3隻の帝国海軍駆逐艦 ~ <概要>」)

 

 

また、平成11年には老巧化により艦首部分が崩壊したたことから、翌12年には船体の周囲をコンクリートで補強する修復が行われています。

 

軍艦防波堤として残る「柳(初代)」の船体(引用:Wikipedia)

(Morumoru - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23199572による)

 

平成21年4月の「軍艦防波堤」(赤丸部分が「柳」の船体)

(引用:「国土地理院 地図・航空写真閲覧サービス」CKU20091-C10-26)

 

ところで、よく間違われる「松(二代)」型(丁型)駆逐艦の「柳(二代)」も合わせて取り上げましょう。

一等駆逐艦「柳(二代)」は、昭和19年度計画において「松」型の14番艦として大阪・藤永田造船所で昭和19年8月に起工され、昭和20年1月に竣工しています。

【要目(竣工時の「松(二代)」】

 基準排水量:1,262トン、全長:100.0m、水線幅:9.4m、吃水:3.3m

 主機:艦本式オール・ギアードタービン機関×2、

 主缶:ロ号艦本式水管缶(重油専焼)×2、推進軸:2軸

 出力:19,000馬力、速力:27.8ノット、乗員数:211名

 兵装:12.7cm40口径連装高角砲×1、12.7cm40口径単装高角砲×1、25㎜3連装機銃×4、

     25mm単装機銃×8、61cm4連装魚雷発射管×1

 ※出典:世界の艦船「日本駆逐艦史」増刊第34集、No.453、1992年7月、海人社、P.129

 

一等駆逐艦「柳(二代)」(引用:Wikipedia・一部加工)

(U.S. Navy - National Archives, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28377495による)

 

「柳(二代)」は、昭和20年3月に第五十三駆逐隊に編入され、戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に参加すべく訓練を行っています。

しかし、特攻作戦に加わる事はなく、第三十一戦隊に編入され回天目標艦として山口・徳山沖の大津島方面で行動しています。

昭和20年5月には青森の大湊警備府部隊に編入され、大湊へ回航され、函館湾を根拠地として津軽海峡で対潜警戒に従事します。

昭和20年7月14日には北海道・渡島福島沖で、米海軍航空母艦「エセックス」艦載機の攻撃を受けロケット弾攻撃が命中、艦尾切断、舵機室・推進機能喪失の被害を受け、戦死者21名、負傷者59名を出しています。

損傷した「柳」は曳航され大湊に到着しますが、昭和20年8月9日に大湊湾で米海軍機動部隊の艦載機による空襲を受け大破、浸水が激しく葦崎東方海岸に擱座します。

「柳」は擱座状態で終戦を迎え、昭和21年10月から翌年5月までに解体されて姿を消します。

 

大湊・葦崎東方海岸に擱座した「柳(二代)」(左)と敷設艦「常磐」(右)

(引用:「写真 日本の軍艦 駆逐艦2」第11巻、1990年6月、光人社、P.187)

 

戦後、海上自衛隊には「やなぎ」を名乗る艦艇は現れていませんが、海上保安庁の船艇のうち旧税関所属船(大正13年6月竣工・22トン)の「やなぎ丸」が「やなぎ(H-21)」と改名されて、昭和23年5月1日に編入されていますが、1年後の昭和24年6月には改役されています。

 

大東亜戦争中に「柳」という名の駆逐艦が建造され、なおかつ昭和15年に除籍されたものの海兵団の練習船として残っていた「柳」、紛らわしいので間違われるのは仕方がないかもしれませんね。

 

【参考文献】

Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

【Web】

「京都府」HP

「国土地理院 地図・航空写真閲覧サービス」HP

「日本船舶海洋工学会 デジタル造船資料館」HP