航空隊の訓練、対潜掃討、戦後は防波堤として活躍した駆逐艦「澤風」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

ブログに『祖父が「澤風」「春風」に配属され、最後は北浦海軍航空隊に配属された後、終戦後に充員召集解除となりました』とのコメントを頂いきました。ありがとうございます。

以前に「春風」は取りあけていますので、今回は一等駆逐艦「澤風」を取り上げてみたいと思います。

 

一等駆逐艦「澤風」は、「峯風」型の2番艦として大正7年1月に三菱造船長崎造船所で起工され、大正9年3月に竣工しています。

【要目(新造時の「峯風」)】

 基準排水量:1,215トン、全長:102.6m、水線幅:8.9m、吃水:2.9m

 機関:三菱パーソンズ式オール・ギヤードタービン×2、推進軸:2軸

 主缶:ロ号艦本式水管缶(重油専焼)×4

 出力:38,500馬力、速力:39ノット、乗員数:148名

 兵装:12cm45口径単装砲×4、6.5mm単装機銃×2、53cm連装魚雷発射管×3、一号機雷×16

※引用:世界の艦船別冊「日本駆逐艦史」No.453、1992年7月、海人社、P.66

 

一等駆逐艦「澤風」

(引用:「ハンディ版日本海軍艦艇写真集 駆逐艦秋月型、松型、睦月型、神風型、峯風型」

No.18、光人社、P.117)

 

「峯風」型は、それまでの帝国海軍の駆逐艦が英国の駆逐艦をモデルとした設計を行ってきたのに対し、艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウエルデッキを設け、艦橋への波浪の直撃を避ける「純日本式」の設計を行った初の一等駆逐艦です。

また、パーソンズ式のオール・ギヤードタービン機関を搭載、39ノットという高速を得ることができた駆逐艦でした。

「澤風」は1番艦の「峯風」よりも早く竣工したことから、「峯風」型のトップを切って試運転を行いましたが、その際タービン動翼の欠損やタービン軸の屈曲という重大な故障に見舞われています。

 

大正9年12月には、同型艦「峯風」「矢風」「沖風」と共に第2駆逐隊を編成し、第2艦隊第2水雷戦隊に編入されています。

 

昭和5年11月には第2駆逐隊は空母「赤城」直衛として第1航空戦隊に編入され、不時着機の救助を行う、「トンボ釣り」と呼ばれる任務に従事します。

 

航空母艦「赤城」(引用:Wikipedia)

(Shizuo Fukui - Kure Maritime Museum, (edited by Kazushige Todaka), Japanese Naval Warship Photo Album: Aircraft carrier and Seaplane carrier", p. 20., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10973054による)

 

昭和7年の上海事変では長江水域で作戦行動を行い、昭和10年4月には館山海軍航空隊の練習艦となります。また、昭和13年12月に予備艦となった際にも同航空隊の練習艦として各種飛行訓練に従事しています。

 

そして、昭和14年11月には第一線を退き横須賀鎮守府の練習駆逐艦となり、昭和16年9月には再び館山航空隊付属として各種飛行訓練に協力しています。

 

大東亜戦争開戦後も館山を拠点とし、昭和17年3月からは東京湾口で対潜掃討に従事、12月には室蘭までの船団護衛や東京湾口での対潜掃討に当っています。

 

昭和17年・房総沖で対潜掃討に従事中の一等駆逐艦「澤風」

(引用:「日本海軍全艦艇史 下巻」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.561)

 

その後も内地での船団護衛などに従事し、昭和19年2月からは三重・尾鷲を基地とした紀伊半島方面での対潜掃討および船団護衛に従事しています。

昭和19年12月には横須賀港に戻り、海軍対潜学校練習艦となります。

 

昭和20年2月から3月にかけて対潜実験艦への改装工事を受けた後、5月には第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練の目標艦として使用され、横須賀で無傷のまま終戦を迎えます。

【要目(対潜実験艦に改装後)】

 兵装:12cm45口径単装砲×1、25mm連装機銃×4,25㎜単装機銃×4、15cm対潜噴進砲×1

     22号電探×1、爆雷×36

 ※引用:「ハンディ版日本海軍艦艇写真集 駆逐艦秋月型、松型、睦月型、神風型、峯風型」

      No.18、光人社、P.93

 

一等駆逐艦(対潜実験艦)「澤風」(引用:Wikipedia)

(US Navy - Official US Navy photo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4387455による)

 

「澤風」は対潜実験艦に改装された際、前檣を三脚檣に変更し魚雷発射管をすべて撤去しています。

 

終戦後の日本では食料増産が急務となり、その一貫として漁獲高を上げることにも力が注がれます。

一方で、当時の地方港湾では防波堤がない港も多く、漁業の振興のために漁港の整備が必要とされていました。

これに対し、GHQでは廃艦を沈めることで即席の防波堤を整備する方針を打ち出したことから、日本各地で、帝国海軍の艦艇を利用した防波堤工事が実施されることとなります。

「澤風」は、福島・小名浜港の防波堤として活用されることとなり、昭和23年に浦賀船渠で檣楼や艦橋など船体上部構造がすべて撤去され、雑役船「栗橋」に曳航され小名浜港へ運ばれます。

 

昭和23年4月2日に「澤風」は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤として小名浜港に設置されました。

 

小名浜港の防波堤となった「澤風」の船体

(引用:「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」整理番号MTO617X)

 

防波堤として設置後の「澤風」は、蒸気タービンを取り外さずに沈設したために金目の物が多く、鉄板は剥がされ、船内の配線は引き抜かれ荒されるなどの盗掘の被害に遭うこととなります。

盗難を防ぐため船内にコンクリートが流し込まれます。

 

昭和40年10月には魚市場の拡張に伴い「澤風」防波堤の解体・撤去作業が開始されますが、「澤風」のスクラップは保存運動が起き、紆余曲折を経て昭和48年11月にいわき市・三崎公園内の「いわきマリンタワー」の近くに蒸気タービンを用いた艦魂碑が建立され、現在でもその姿を見ることができます。

 

福島・いわきの三崎公園といわきマリンタワー

(引用;HP「三崎公園・いわきマリンタワー」)

 

 

「澤風」および一緒に防波堤とされた一等駆逐艦「汐風」の顛末については、「ミリタリー関連個人WEBサイト Die Letzte Kampfgruppe」さんの「沈船防波堤「汐風」「澤風」」に詳しく記載されていますので、リンクを貼っておきます。

 


なお、「澤風」の名は海上自衛隊の護衛艦「さわかぜ(DDG-170)」(昭和58年3月就役、平成22年8月退役)に引き継がれています。

 

ミサイル護衛艦「さわかぜ(DDG-170)」(引用:Wikipedia)

(User:STB-1 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5618052による)

 

大東亜戦争時には既に旧式艦となっていましたが、戦前から練習駆逐艦として、また航空隊の付属艦として航空機の救難や訓練に使用され、大東亜戦争中には船団護衛や対潜掃討に奮闘しました。

そして、戦後は防波堤として小名浜港の守りに就いた「澤風」は、「縁の下の力持ち」として長く活躍した「老兵」でした。

 

【参考文献】

Wikipedia および

 

 

 

 
 

 

【Web】

 HP:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 HP:三崎公園・いわきマリンタワー

 HP:ミリタリー関連個人WEBサイト Die Letzte Kampfgruppe:沈船防波堤「汐風」「澤風」