女川空襲で戦没・写真が残っていない標的艦「大浜」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は標的艦を取り上げます。

標的艦としては、ワシントン海軍軍縮条約で廃棄予定の戦艦を改装した「摂津」が、帝国海軍では初の標的艦として類別されたのが大正12年10月でした(地味な戦艦から、地味でも重要な存在となった標的艦「摂津」)。

 

標的艦「摂津」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=931388)

 

その後、爆撃練習専用の標的艦として「波勝」の建造が昭和16年度に計画され、昭和18年11月に竣工します。(大東亜戦争当時の標的艦「波勝」

 

しかし、「波勝」は速力が19;3ノットと低速で、用兵側から高速爆撃標的艦の要望があがります。

これに対し、帝国海軍ではミッドウェー海戦後に見直された昭和18年度の建艦計画である「改マル五計画」で速力30ノットを超える標的艦5隻の建造を計画します。

 

その第一艦は三菱重工横浜造船所で昭和18年10月に起工され、昭和20年1月に竣工し「大浜」と名付けられます。ちなみに「大浜」は広島・因島にある大浜埼から採られています。

【要目】

 基準排水量:2,580トン、全長112.00m、最大幅:11.55m、吃水:4.10m
 機関:艦本式オール・ギアード蒸気タービン×2、缶:ロ号艦本式水管缶(重油専焼)×3、推進軸:2軸
 出力:52,000馬力、速力:33.0ノット
 兵装:12cm45口径単装高角砲×2、25㎜3連装機銃×4、25㎜単装機銃×20、三式爆雷投射機×1、

     爆雷投下軌条×1、爆雷×36、93式水中探信儀×1

 ※出典:世界の艦船別冊「日本海軍特務艦船史」No.522、1997年3月、海人社、P43

 

標的艦「大浜」艦型図(引用:Wikipedia)

(SnowCloudInSummer - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5957529による)

 

「大浜」は、一等駆逐艦「秋月」型と同じ機関を搭載し、「波勝」で不安視された復元性能を改善するため、全体に低いシルエットとなっています。

また、防御は高度4,000mからの爆撃で投下される10kg演習弾に耐えることが求められたことから、上甲板のうち爆弾の当たる可能性のある部分や、その上に設置された防御甲板には25mmDS鋼が張られています。

 

「大浜」の建造中に戦局は悪化し、詳細設計の段階である程度の簡易化も考えられ艦首は簡易型となっています。また、昭和19年秋には護衛艦としても使用できるよう計画変更され、対空兵装をびっしりと搭載し竣工しています。

 

昭和20年3月には東京湾で標的艦としての運用に就きますが、すぐに燃料が尽きてしまい木更津沖に錨泊して訓練標的とされます。さらに昭和20年6月には横須賀沖に移され係留されます。

昭和20年7月の横須賀空襲により死傷者を出した後、「大浜」を三陸方面へ移動させ搭載兵器は他へ転用することとなり、8月3日に運送艦「宗谷」とともに宮城・女川港へ疎開します。

 

特務艦(運送艦)「宗谷」

 (出典:世界の艦船「日本海軍特務艦艇史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P33)

 

しかし、女川港も安全ではなく8月9日に空襲を受け「大浜」は直撃弾2発と多数の至近弾を受けて浸水し、60度傾斜した状態で着底します(擱座、横転などの説あり)。この空襲では海防艦「天草」「第四十二号駆潜艇」などが戦没しています。

「大浜」はそのままの状態で終戦を迎え、昭和20年9月15日には除籍、その後解体され姿を消しました。

 

「大浜」は戦後解体されているにもかかわらず、作業も含めて写真が残されていません。

ただ、2番艦の「大指」は未成でしたが写真が残っています。

「大指」は、「大浜」と同じく三菱重工横浜造船所で昭和19年1月に起工され、翌20年2月に進水します。

しかし、船橋の悪化から昭和20年6月23日、工程95%で工事が中止されます。

 

昭和21年3月6日、「大指」は横浜港で繋留中に触雷してしまいます。その後漂流し横浜港外第二区で繋留中だった帝国陸軍の特2TL型戦時標準船「山汐丸」に衝突して沈没してしまいます。

 

昭和21年・横浜港外第二区で沈没した「大指」(右)と「山汐丸」(左)(引用:Wikipedia)

(復員庁 - 潮書房丸スペシャル『日本の空母II』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44862377による)

 

昭和21年・横浜港外第二区で沈没した「大指」(手前・赤囲内)と「山汐丸」(奥)

(引用:「日本陸軍の航空母艦」奥本剛、2011年6月、大日本絵画、P.75) 

 

子の写真が「大浜」型の標的艦の艦型が比較的良くわかる写真だと思います。

「大指」は昭和22年2月に行動不能艦艇に定められ、のち浮揚・解体されています。

 

標的艦「大浜」は、竣工はしたものの当初の目的には使用されず、写真も残っていない「幻の艦」でした。しかし「大浜」が撃沈された宮城・女川空襲では、帝国海軍の女川防備隊として配属されていた兵員158名が犠牲になっているのは事実です。

 

宮城・女川には昭和20年8月9日の女川空襲による犠牲者に対する慰霊碑が建立されています。

 

「女川湾戦没者慰霊塔」(引用:Google ストリートビュー)

 

【参考文献】

Wikipedia および