美の巨人・山下公園「氷川丸」の次女「日枝丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

昨夜、テレビ東京系列(大阪ではテレビ大阪)の「美の巨人たち」という番組で、横浜・山下公園の「氷川丸」を取り上げていました。30分の番組でしたが、じっくり見てしまいました。

そういえば、昨年の夏に「氷川丸」を見に行ったな、と。

 

令和元年7月30日 横浜・山下公園の「氷川丸」

 

「氷川丸」の一等食堂

 

「氷川丸」は、この時に「今日の横浜港と「氷川丸」」と題してブログに取り上げていました。

また、姉妹船の「平安丸」についても、「もうひとつの氷川丸 「平安丸」の最期」と題してブログに取り上げていました。

 

貨客船「平安丸」(出典:Wikipedia)

(『歴史寫眞』昭和十二年四月號 / Rekishi Shashin April 1937 issue - http://kyoto.cool.ne.jp/syasinsyuu/t6.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2753183による)

 

ですが、何か片手落ちな感じで落ち着きません。「氷川丸」は同型船が他に2隻あります。「平安丸」は取り上げたものの、もう1隻取り上げていませんでした。その船の名は「日枝丸(ひえまる)」といいます。

 

「日枝丸」は、「氷川丸」と同じ横浜船渠で「氷川丸」から半年遅れの昭和4年5月に起工されています。

当時、横浜船渠では日本郵船の大型貨客船「氷川丸」、「日枝丸」と浅間丸型貨客船の「秩父丸」の計3隻が並んで建造されていました。

 

 

貨客船「秩父丸」(引用:Wikipedia)

(Sydney Sub Area Intelligence Section - This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19619269による)

 

そして、「日枝丸」は昭和5年7月に竣工します。姉妹船とともに北米・シアトル航路に就航し、乗客と一緒に往航では生糸、日本茶、綿製品、玩具などを、復航は屑鉄、銅、亜鉛,ニッケル、牛皮、航空機用特殊木材などの輸送に活躍します。

【要目】

 総トン数:11,622トン、全長155.94m、幅:20.12m、深さ:12.50m

 機関:B&Wディーゼル機関×2、推進軸:2軸、

 出力:11,000馬力、速力:18.50ノット、船客定員:331名

 ※出典:「七つの海で一世紀」、1985年10月、日本郵船、P82

 

日本郵船・貨客船「日枝丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - 世界の艦船別冊『日本客船の黄金時代 1939-41』18P, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6985398による)

 

シアトル航路の主力船として活躍中の昭和13年1月20日、シアトル港内の桟橋で「日枝丸」の爆破未遂事件が発生します。

主犯格はカナダ・ビクトリア在住の29歳大学講師で、港内で水死体とダイナマイト300本、時限発火装置を設置した筏が発見され、共犯の男は桟橋で取り押さえられました。

たまたま時限発火装置が予定時刻の30分前で止まっており、主犯格の男は低温の海で凍死していた、とされています。

当時は支那事変により北米の対日感情は悪化しており、その影響ではないかと言われていますが、その動機は現在でもはっきりしていません。

 

昭和16年7月には国際状況の悪化によりシアトル航路は閉鎖され、「日枝丸」は昭和16年9月から11月まで英国領インドや東アフリカの在留邦人の引き揚げのための特別航海に就きます。

そして昭和16年11月に帝国海軍に徴傭され、開戦直前の昭和16年12月7日にはマーシャル諸島のクェゼリン島への軍需物資輸送に従事しています。

 

昭和17年2月15日には特設潜水母艦に編入され、4月には艤装工事が終了、第六艦隊第八潜水戦隊の母艦に指定され、南洋・ラバウル、トラック諸島方面に展開します。

昭和18年6月にはインド洋に進出し、7月にはインド洋上でドイツに向かう「伊号第八」潜水艦に補給を行なっています。

 

「伊号第八」潜水艦(引用:Wikipedia)

(N. Polmar, D. Carpenter. Submarines of the Imperial Japanese Navy 1904—1945. — Conway Maritime Press, 1986, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3681241による)

 

昭和18年9月以降は兵員輸送に当たるようになり、10月1日付で特設潜水母艦を解かれ、特設運送船(雑用)となり、輸送船として上海からトラックへの兵員・物資の輸送に就きます。

昭和18年11月3日にラバウルに向けトラック諸島を出港後に雷撃を受け損傷、一度トラック諸島に引き返します。

11月8日に再度トラック諸島を出港、ラバウルへの兵員・物資輸送を終えトラック諸島への帰路につきますが、11月17日の14時40分頃に米海軍潜水艦「ドラム(SS-228)」の雷撃を受け、3番船倉に魚雷1本を受け4時間後に沈没し生涯を終えます。

 

米海軍潜水艦「ドラム(SS-228)」(引用:Wikipedia)

(不明 - 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2578034による)

 

「日枝丸」の沈没に際し、乗員・便乗者は全員救助されてトラック島に上陸します。そして、航空母艦「冲鷹」に便乗して内地に向かいますが、昭和18年12月4日に「冲鷹」も米潜水艦の雷撃により沈没してしまい、「日枝丸」の乗組員21名中20名が戦死されました。

 

航空母艦「冲鷹」(引用:Wikipedia)

(Japanese_aircraft_carrier_Chūyō.jpg: 不明derivative work: 0607crp (talk) - Japanese_aircraft_carrier_Chūyō.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11083290による)

 

「日枝丸」は三姉妹のうち最初に姿を消した船となり、同じように特設潜水母艦から特設運送船となった「平安丸」も、昭和19年2月のトラック大空襲で姿を消してしまいます。

 

なお、「日枝丸」を雷撃した潜水艦「ドラム」は、水上機母艦「瑞穂」も雷撃で沈めており、戦後はアラバマ州モービルでアメリカ合衆国国定歴史建造物として展示されています。

 

大東亜戦争を生き抜き、今では重要文化財となった長女「氷川丸」、トラック大空襲で沈没したもののダイビングスポットとして知られる三女「平安丸」と比べると、少々影の薄い次女「日枝丸」ですが、シアトル航路の花形として活躍した三姉妹の一角として活躍した船があることを知って欲しいと思い、取り上げてみました。

 

日本郵船・貨客船「日枝丸」

(「七つの海で一世紀」1985年10月、日本郵船、P.82)

 

とはいうものの、大東亜戦争中の写真を探してみたものの見つからず、このブログでも三姉妹の最後に取り上げることとなってしまいましたが…。