昭和19年8月22日・悲劇の貨物船「対馬丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

8月初旬からの仕事に、少し区切りがつきました。次の仕事はすでに用意されていますが…。

連休となって良かったです。この週末は、家族でお出かけの計画でしたので、冷や冷やしていました。

 

76年前の今日、8月22日は学童疎開船「対馬丸」が撃沈された日です。

「対馬丸」は日本郵船の貨物船で、同社が明治45年から整備を開始した「T型」と呼ばれた貨物船27隻の1隻です。

「T型」のうち欧州向けに建造が計画された6隻の一角として、英国・グラスゴーのラッセル造船所で同型の「高田丸」ともに建造され、大正4年2月に竣工します。

大日本帝国への回送後、大正5年6月からは第一次世界大戦只中の欧州航路などに就航し、連合国向けの軍需品や食糧輸送を行っています。

【要目】

 総トン数:6,754トン、責貨重量:10,615トン、全長:135.64m、幅:17.68m、深さ:10.36m、吃水:2.71m

 機関:ローワン・デヴィット社製三連成レシプロ機関×2、出力:4,396馬力、推進軸:2軸

 最高速力:13.9ノット、航海速力:11.0ノット、乗組員数:61名

 ※引用:Wikipedia

 

 

日本郵船・貨物船「対馬丸」(引用:Wikipedia)

(日本郵船株式会社 - この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=71800906による)

 

「対馬丸」は大正5年6月に再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜-東回りニューヨーク航路の第1便となりました。

しかし、昭和4年から大阪商船の「畿内丸」型と呼ばれるディーゼル機関を搭載した高速の貨物船が同じ航路に就航を始めると、従来のレシプロ機関を使用した低速の「T型」貨物船などを主力とした日本郵船の貨物船隊は劣勢となります。

 

大阪商船に対抗し、日本郵船は政府と帝国海軍が連携した優秀船舶への補助制度を利用し「N型」「A型」「S型」と、ディーゼル機関を踏査した新型の貨物船を整備していきます。

これにより、「T型」貨物船はメインルートからは撤退、新たに開設された中央アメリカやメキシコ湾岸方面への新航路などに転じたり、他の船会社に売却されていきます。「対馬丸」は昭和12年度にはインド・カルカッタ線に就航しています。

 

「対馬丸」は昭和16年9月に帝国陸軍に徴傭され、南方作戦に投入されます。

昭和16年12月の現フィリピン・リンガエン湾上陸作戦、昭和17年2月の現インドネシア・パレンバン攻略作戦に参加しています。

南方作戦が一段落したことから、昭和17年5月に帝国陸軍から解傭されます。その後は船舶運営会により運航されることとなり、物資等の輸送任務に就きます。

昭和18年6月5日には、台湾・高雄から山口・六連島に向かう船団にの1隻として航行中に、米海軍潜水艦「ティノサ(SS-283)」の雷撃を受け、魚雷1本が命中しますが、魚雷は不発で事なきを得ました。

 

昭和18年10月、第431船団に加入して現ベトナム・サンジャックから台湾・高雄に向かう途中に雷撃を受けますが、6本の魚雷のうち3本が船底下を通過するという幸運に恵まれています。

 

大型の優秀船舶が不足してきたことから、昭和18年10月には再び帝国陸軍に徴傭され、昭和19年5月には現フィリピン・マニラと現・インドネシアハルマヘラ島との間での輸送船団に加わっています。

 

そして、1944年7月にサイパンが陥落すると、帝国政府は沖縄県知事宛てに『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達します。しかし当時の沖縄県民は必ずしも疎開を望んではおらず、最終的には軍が隣組長や国民学校長を通じて、疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出し、本格的な疎開が始まります。

 

「対馬丸」は学童疎開船として使用され、昭和19年8月1日に帝国陸軍部隊を乗せて福岡・門司を出港、8月5日に嘉手納沖に到着し帝国陸軍部隊の揚陸を行った後、今度は上海方面に向かい、沖縄防衛に帝国陸軍部隊の兵員や馬匹を搭載します。

昭和19年8月16日に上海・呉淞沖を出港して那覇に向かい、8月19日に那覇に到着します。

 

この後、昭和19年8月21日の18時35分に「対馬丸」は「暁空丸」「和浦丸」と共に、「ナモ103船団」を構成して台風接近による激しい風雨の中、駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」の護衛を受け、那覇から長崎へ向けて出港します。

この時「対馬丸」には民間人および那覇国民学校の児童と介添者を合わせた1,661名(1,667名、1,788名の説もあります)、上海から転送中の貨物を乗せ、乗組員は86名で運航されていました。

 

一方、この付近の海域を哨戒していた米国海軍潜水艦「ボーフィン(SS-287)」は、8月21日の早朝4時10分頃に「ナモ103船団」を補足します。この時、帝国軍の哨戒機が警戒していたことから、夜間攻撃を行うこととし、船団を追跡します。

 

そして、昭和19年8月22日2時9分、潜水艦「ボーフィン」は距離約2.6km)で魚雷6本を発射します。

攻撃された「対馬丸」は見張員が魚雷発射を確認し、ただちに魚雷の回避と反撃の砲撃にとりかかろうとしますが、3本の魚雷が対馬丸の第一、第二、第七船倉左舷に、続いて別の魚雷1本が第五船倉右舷に命中してしまいます。

魚雷命中から僅か11分後の22時23分頃、「対馬丸」は大爆発を起こして沈没します。

 

最終的に「対馬丸」は乗員・乗客合わせて1,484名が犠牲となる大惨事となります。一方で、生き残った児童はわずかに59名(一説に60名)。

 

悲劇の「対馬丸事件」として有名な事件ですが、「対馬丸」とはどんな船だったのか。新造時は日本郵船のスターであったことなど、時間がなかったので簡単にですが取り上げてみました。