大日本帝国・中華民国・中華人民共和国で艦隊旗艦を務めた砲艦「宇治」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

コロナウィルスによる外出自粛が続いてますが、屋外の施設という事で京都の南部・宇治と伏見を回ってきました。さすがに三連休の中日で転機も良いという事もあり、外国人観光客はほぼ見掛けなかったものの日本人観光客でそれなりの人出のようでした。

 

平等院鳳凰堂

 

そういえば「宇治」と言う名を持った艦艇がいたなぁ。と思い、調べてみました。

帝国海軍時代に2隻の砲艦が存在しています。

 

初代「宇治」は、日清戦争後の大陸との貿易量の増大と権益拡張を背景に、帝国海軍最初の外地警備用の砲艦として明治34年度に計画されました。

明治35年3月に呉造船廠(後の呉海軍工廠)で起工、翌36年8月に竣工し二等砲艦に類別されます。

「宇治(初代)」は、それまでの沿岸警備用の砲艦と異なり、長江での行動を考慮して吃水を2m強として設計されました。

また、当初は佐世保造船廠(後の佐世保海軍工廠)で建造予定であったものの、露国との関係悪化により余力のあった呉造船廠での建造に改められた経緯があり、日露戦争開戦直前に竣工しています。

 

【要目】

 常備排水量:620トン、垂線間長:54.98m、最大幅:8.41m、吃水:2.11m

 機関:3気筒三連成レシプロ機関×2、主缶:艦本式水管缶(石炭専焼)×2、推進軸:2軸

 出力:1,000馬力、速力:13.0ノット、乗員数:80名

 兵装:(大正9年)8cm40口径安式単装砲×4、陸式単装機銃×1、6.5mm麻式単装機銃×3

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦艇史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P82

 

 

砲艦「宇治(初代)」(出典:Wikipedia)

(不明 - 日本海軍艦艇写真集 航空母艦p156, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5774221による)

 

「宇治(初代)」は、大陸方面での運用を想定して建造されたため、外洋航行に向いておらず、居住性の不良や兵装・速力の不足がしてきされました。

しかし、日露戦争の開戦後は黄海方面での警備に就き、日本海海戦では旧式二等戦艦「扶桑」を旗艦とし、旧式砲艦「筑紫」「鳥海」「摩耶」などと第七戦隊を組み参加しています。さらには日本海海戦後に行われた樺太作戦にも参加するなど、目立たないものの活躍しています。

 

第一次世界大戦では、大陸方面で行われた青島攻略戦に参加したほか、南シナ海警備作戦に参加しています。

昭和7年6月には砲艦の等級廃止に伴い類別を「砲艦」とされ、翌8年に勃発した第一次上海事変では、揚子江方面の警備に従事しています。

そして、昭和11年4月に特務艇(潜水艦母艇)に類別されたのち、同年8月に除籍されました。

 

二代目の「宇治」も初代と同様、大陸方面での警備用の砲艦として昭和12年度計画で「橋立」型砲艦の2番艦として計画され、昭和15年1月に大阪鉄工所桜島工場で起工、昭和16年4月に竣工し「砲艦」に類別されます。

「宇治(二代目)」は、揚子江を中流域まで遡行可能な吃水となるよう設計され、環境後部まで高い乾舷を持つことで航洋性を高め、兵装・速力とも従来の大陸方面での警備用砲艦と比較すると十分満足のいく性能を持っていました。

 

【要目】

 基準排水量:993トン、水線長:78.50m、最大幅:9.70m、吃水:2.45m

 機関:艦本式オール・ギヤード蒸気タービン×2、

 主缶:ホ号艦本式水管缶(重油専焼)×2、推進軸:2軸

 出力:4,600馬力、速力:(計画)19.5ノット、乗員数:158名

 兵装:12cm45口径連装高角砲×1、12cm45口径単装高角砲×1、25mm連装機銃×2、

     7.7㎜単装機銃×3

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦艇史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P90

 

砲艦「宇治(二代目)」(出典:Wikipedia)

(不明 - 写真日本の軍艦第9巻p212, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5517976による)

 

「宇治(二代目)」は竣工すると、僚艦「橋立」と共に南支と長江流域の警備に従事し、香港攻略にも参加します。その後も長江方面で活動しますが、昭和19年になると上海方面での船団護衛任務に従事することになります。そして、 終戦時は上海で残存していましたが、昭和20年9月13日に中華民国軍に接収され「長治」と改名、10月25日には正式に帝国海軍籍から除籍されます。

 

中華民国軍に接収後の「長治」は、中華民国海軍海防第一艦隊旗艦となり、昭和22年から翌23年にかけて渤海方面で中国共産党軍との戦闘に従事します。

昭和24年9月に国民党軍が上海を失陥するに及び、「長治」は呉淞口の封鎖を命じられますが、9月19日に乗組員が反乱を起こし中国共産党に投降、共産党軍の艦として「八一」と改名されます。しかし、9月22日に安徽省大通江で国民党軍の爆撃を受け撃沈されてしまいます。

 

「八一」は、昭和24年年12月に浮揚され江南造船廠で修理を受けます。この時兵装をソ連製の13cm単装砲×2、37mm機関砲×6に改装しています。

昭和25年4月に南京において人民解放軍海軍設立一周年を記念して行われた観艦式では、再就役式と命名式が行われ「南昌(艦番号711)」と改名し、新編の第6艦隊並びに華東海軍軍区(東海艦隊)の初代旗艦となります。

 

再就役以後は国民党政権に雇われ中国周辺海域に侵入していた日本籍漁船の拿捕に従事します。昭和29年4月には、漁山列島沖において国民党軍の太字号艦(護衛駆逐艦)と遭遇し交戦し、さらに昭和30年1月には一江山島戦役において艦砲射撃を行うなどの活躍を見せます。

昭和31年には艦番号を811に変更し、さらに昭和36年には210に変更するとともに改装を行い艦橋の形状が変化した他、副砲を37mm連装機関砲×4、37mm単装機関砲×1に変更しています。

昭和43年2月には艦番号を53-224に変更し現役を続行しますが、昭和53年には第一線から引退し、旅順を基地として練習艦として用いられますが、翌年には除籍され38年に渡る艦歴を閉じます。

 

特に「宇治(二代目)」は、昭和17年には帝国海軍・揚子江部隊の旗艦を務め、昭和20年には中華民国海軍海防第一艦隊の旗艦を務め、さらに昭和25年には中華人民共和国・第6艦隊並びに華東海軍軍区(東海艦隊)の初代旗艦を務めるなど、数奇な運命を辿った艦でした。

 

今回の小旅行から砲艦「宇治」について調べてみると、興味深い内容でした。大東亜戦争を生き延びた艦艇には、それぞれ歴史があるようですね。

次回はもう一つの小旅行先、「伏見」を名を冠した艦艇を調べてみたいと思います。