第一次大戦・地中海で活躍した駆逐艦「榊」と英霊の墓碑 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

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今回は前回取り上げた、対一次世界大戦における地中海での戦闘で被害を受けた駆逐艦「榊」を取り上げます。

 

まずは、前回のおさらいです。

大正3年7月に始まった第一次世界大戦では、英国は独国Uボート艦隊による通商破壊作戦に苦慮し、大正6年1月に輸送船舶を護衛するための艦隊派遣を大日本帝国に要請要請します。

これに応えるため、帝国海軍は三等巡洋艦「明石」を旗艦とし、二等駆逐艦「樺」型8隻(「楓」、「桂」、「梅」、「楠」、「榊」、「柏」、「松」、「杉」)からなる「第二特務艦隊」を編成し地中海に派遣、大正6年4月13日にマルタに到着します。

さらに、大正6年8月には一等巡洋艦「出雲」と、当時最新鋭の「桃型」二等駆逐艦4隻(「桃」、「樫」、「檜」、「柳」)が増援され、第二特務艦隊では旗艦が「出雲」に変更されます。

 

一等巡洋艦「出雲」(引用:Wikipedia)

(不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2186761による)

 

第二特務艦隊は、第一次世界大戦の終結までに計348回の船団護衛に従事し、護送した軍艦・輸送船は英国籍を主として延べ788隻、護送人員は75万人に及びました。

 

この作戦に従事中の大正6年5月4日には、「榊」と「松」が護衛中のイギリス兵員輸送船「トランシルヴァニア号」がUボートの雷撃を受けた際、両艦は沈没しつつある「トランシルヴァニア号」に接舷して生存者の救助に当たっています。

 

【要目】

 常備排水量:665トン、基準排水量:595トン、水線長:82.79m、垂線間長:79.25m

 最大幅:7.32m、公試状態吃水:2.36m

 機関:4気筒三連成レシプロ機関×3、

 主缶:ロ号艦本式缶(重油専焼)×2、同(混焼式)×2、推進軸:3軸

 出力:9,500馬力、速力:30ノット、乗員数:94名

 兵装:12cm40口径単装砲×1、7.6cm40口径単装砲×4、45cm連装魚雷発射管×2

 

二等駆逐艦「榊」

(引用:世界の艦船「日本駆逐艦史」増刊第34集、No.453、1992年7月、海人社、P44)

 

当時の英国海軍では、被雷した僚艦を救助しようとして接近した2隻が雷撃を受け3隻とも撃沈され6,000人が戦死する事態が起きたことから、被雷時の救助を一切禁じていました。これにもかかわらず帝国海軍の駆逐艦は生存者の救助のみならず、収容した英兵に進んで自らの衣類や食料、寝所まで提供したため、英兵から大いに感謝されたようです。

 この行動に対し、「松」と「榊」には海軍大臣ウィンストン・チャーチルから深い謝意を表する電報が届けられた他、両艦の艦長以下20数名には英国王ジョージ5世から勲章が授与されています。

 

その約1か月後の大正6年6月11日、「榊」は僚艦とともに護衛任務を終えマルタ島へ帰還の途上、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦「U-27」が発射した魚雷が命中、「榊」は艦橋を含む艦首1/3を切断し、上原太一艦長以下59名の犠牲者を出してしまいます。

 

「榊」は自力航行不能になり、英駆逐艦「リブル」に曳航されてクレタ島のスーダに入港、応急修理を実施した後にマルタで修理を行い、大正7年初旬に完了します。犠牲者59名の遺体は、マルタのイギリス人墓地の一角に葬られました。ここには、第二特務艦隊に派遣以来の戦病死者14名を加えた73名が祀られています。


マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある

第二特務艦隊戦没者の墓碑(引用:Wikipedia)

(GFDL, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=527723)

 

マルタ島の第二特務艦隊戦没者墓碑に献花される皇太子殿下裕仁親王(当時)

(引用:「皇太子殿下御渡欧記念写真帖. 第4巻」大阪毎日新聞社 編、1921年7月/

国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966795)

 

前回も書きましたが、この第二特務艦隊の功績により、連合国五大国の一つとしてパリ講和会議への参加が認められ、ヴェルサイユ条約で独国のアジア権益を信託統治領として勝ち取ることができました。

また、大正9年には国際連盟の常任理事国に名を連ねることになり、大日本帝国は世界で確固たる地位を得ました。

 

内地へ帰還した後の「榊」は、大正14年11月にそれまで所属していた佐世保鎮守府から横須賀鎮守府に転出し、昭和6年10月31日、「特型(吹雪型)」一等駆逐艦の「曙」が竣工したことにより、特型と交代する形で駆逐隊から離脱、翌昭和7年4月1日に除籍されます。

 

また、仏国海軍では大正6年3月に「樺」型駆逐艦と同型艦12隻を発注し、「アラブ」級駆逐艦として大正6年7月から10月の間に竣工、大日本帝国側の要員によってエジプト・ポートサイドまで回航し仏国引き渡され、第一次世界大戦に従事しています。欧州海軍に大日本帝国で建造した艦艇が採用された稀有な例です。

 

仏国「アラブ」級駆逐艦「アルジェリアン」(引用:Wikipedia)

(Marius Bar - site Pages14-1 [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18974664による)

 

「榊」には2代目として大東亜戦争末期に計画・建造された「改丁型(橘型)」一等駆逐艦として命名が予定されます。仮称艦名を「第4820号艦」とされ、昭和19年12月29日に横須賀海軍工廠で起工され、昭和20年1月8日に「榊」と命名されますが、昭和20年4月17日に工事中止され未成艦となります。

【要目(改丁型)】

 基準排水量:1,289トン、水線長:98.00m、垂線間長:92.15m、

 最大幅:9.35m、公試状態吃水:3.37m

 機関:艦本式タービン×2、主缶:ロ号艦本式缶(重油専焼)×2、推進軸:2軸

 出力:19,000馬力、速力:27.8ノット

 兵装:12.7cm40口径連装高角砲×1、12.7cm40口径単装高角砲×1、

    25mm3連装軌条×4、25㎜単装機銃×12、61cm4連装魚雷発射管×1

 

「改丁型」一等駆逐艦「初桜」(引用:Wikipedia)

(不明 - Архив фотографий кораблей русского и советского ВМФ., パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3709566による)

 

「榊」は戦後の海上自衛隊にその名を継承した艦艇はありませんが、海上保安庁が終戦間もない時期に建造した巡視艇に「さかき」の名を冠した船があります。

 

「さかき」はGHQから米国コーストガードの38フィート型港内艇に相当する船を整備するよう勧告され昭和25年度から27年度にかけて計画・建造された巡視艇「あやめ」型52隻のうちの1隻です。

「さかき(CS-87)」は、昭和26年度に計画され、九州造船外浦工場で建造、昭和27年2月に竣工します。

【要目】

 総トン数:11トン、常備排水量:8トン、船質:木、

 全長12.4m、最大幅:3.0m、深さ:1.6m

 機関:ディーゼル×1、推進軸:1軸、出力:165馬力、速力:13ノット、乗員:5名

 ※引用:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P39

 

「あやめ」型巡視艇「もくれん(S-30)」

(引用:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P39)

 

「さかき(CS-87)」は昭和29年5月に艇番号を「CS-33」に変更され、昭和48年10月に解役されています。

 

前回から2回に渡り、第一次世界大戦において帝国海軍が地中海で活躍したこと、それにより大日本帝国が躍進できたことについては、現代の中学校で使用される歴史教科書には一行も書かれていません。

今では忘れ去られつつある「遠くマルタの地に英霊が眠っていること」を少しでも知っていただければ、と思い書いてみました。