旧露艦を改修した初代「宗谷」、スコットランド沖に散る | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は「宗谷」完結編です。

初代「宗谷」、帝国海軍の二等巡洋艦を取り上げます。

 

「宗谷」は日露戦争において、帝国海軍が捕獲したロシアの巡洋艦で旧名を「ワリヤーグ(Varyag)」と言います。

ロシア帝国海軍は、極東艦隊強化の一環として、通商破壊と哨戒を目的とした高速な防護巡洋艦の建造を計画し米国・クランプ社に発注します。そして、明治34年1月に竣工し「ワリヤーグ(Varyag)」と名付けられます。

【要目(「ワリヤーグ」:就役時)】

 常備排水量:6,500トン、長さ:129.6m、幅:15.8m、平均吃水:6.3m

 機関:4気筒三連成レシプロ機関×2、主缶:ニクローズ缶×30、推進軸:2軸

 出力:20,000馬力、速力:23ノット、乗員数:570名

 兵装:15.2cm45口径単装速射砲×12、7.6cm50口径単装速射砲×12、47mm43口径単装砲×8、

     37mm23口径回転式機砲×2、45cm魚雷発射管×6

 ※出典:Wikipedia

 

ロシア海軍 防護巡洋艦「ワリヤーグ」(出典:Wikipedia)

(By Uncredited - probably Robert L. Dunn - The Russo-Japanese War, P.F. Collier & Son 1904, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1655329

 

「ワリヤーグ」は日露戦争開戦時、砲艦「コレーツ」とともに朝鮮半島・仁川港に在泊しており、帝国海軍の二等巡洋艦「浪速」「高千穂」、三等巡洋艦「明石」「新高」に一等巡洋艦「浅間」を加えた艦隊を朝鮮半島に派遣、開戦により仁川港から脱出した三等巡洋艦「千代田」を加えた艦隊を仁川沖で編成します。

帝国陸軍の仁川上陸と呼応し、帝国海軍は仁川港に在泊中のロシア艦艇に対して出港しない場合は港内で攻撃することを通告します。

これを受けたロシア海軍の「ワリヤーグ」と「コレーツ」は仁川を出港しますが、仁川沖に展開した帝国海軍艦隊からの砲撃を受け「ワリヤーグ」は被弾により浸水し傾斜・炎上しながら仁川港内に引き返し、「コレーツ」もそれに続きます、この戦闘は「仁川沖海戦」と名付けられます。

 

仁川沖海戦で損傷した防護巡洋艦「ワリヤーグ」(出典:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=596020

 

海戦後、拿捕を防ぐため仁川港内で「コレーツ」は爆破され、「ワリヤーグ」も自沈します。

「ワリヤーグ」はその後も大破した状態で仁川湾内に放棄されますが、、日露戦争の集結により帝国海軍は「ワリヤーグ」を浮揚を計画します。浮揚に際し、陳抜場所は泥砂で、干満の差が大きいことから作業は困難を極めましたが、明治38年8月に浮揚に成功、「宗谷」と命名され二等巡洋艦に編入されます。なお、天皇に奏聞した他の候補艦名に「博多」、「長谷」、「不破」があったという文献も存在します。

 

明治38年8月、浮揚に成功した「ワリヤーグ」(出典:Wikipedia)

(不明 - Фотография из Архива сайта Tsushima.SU, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6285271による)

 

浮揚された「宗谷」は、佐世保港を経由し横須賀へ回航され、明治38年11月から横須賀海軍工廠で大規模な修復工事を開始し、明治40年7月に完了、11月に就役します。

 

【要目(「宗谷」:就役時)】

 常備排水量:6,500トン、垂線間長:121.9m、幅:15.8m、平均吃水:6.1m

 機関:直列式4気筒三連成レシプロ機関×2、主缶:宮原式缶、推進軸:2軸

 出力:20,000馬力、速力:23.0ノット、乗員数:570名

 兵装:15.2cm45口径単装砲×12、8cm40口径単装砲×8、47mm単装砲×2、45cm魚雷発射管×4

 ※出典:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P138

 

整備完了後の二等巡洋艦「宗谷」(出典:Wikipedia)

(不明 - Фотография из Cruisers of the Imperial Japanese Nevy: from collection S.Fukui and Maritime Museum Kure, Kure 2005. Материал предоставил Александр Александров., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11766561による)

 

就役後の「宗谷」は専ら練習艦として使用されますが、帝国海軍では珍しい米国式の艦であったこと、かつ同型艦がないことが運用上の支障となったことが理由とされています。

明治42年3月から8月にかけて、元露海軍の巡洋艦であった一等巡洋艦「阿蘇」と練習艦隊を編成し、ハワイ島および北アメリカへ少尉候補生の遠洋航海訓練を行います。「宗谷」はこの遠洋航海訓練に大正2年まで使用されます。

 

第一次世界大戦が始まると、大日本帝国と同じく連合国の一員となったロシアを支援するため、日露戦争の際に接収したいくつかの艦船をロシアへ売却もしくは譲渡することが決定されます。

「宗谷」もその艦船のひとつに選定され、大正5年4月に帝国艦艇から除籍のうえロシア極東のウラジオストクでロシア帝国海軍へ引き渡され、艦名も元の「ワリヤーグ」へ再度変更されます。

「ワリヤーグ」は大正5年6月には北氷洋小艦隊司令官旗を掲げてウラジオストクを離れ、11月にロマーノフ・ナ・ムールマネ(後のムルマンスク)へ到着します。

 

大正5年、エジプト・ポートサイドに停泊中の巡洋艦「ワリヤーグ」(出典:Wikipedia)

(不明 - Архив фотографий кораблей русского и советского ВМФ., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6285236による)

 

その後、「ワリヤーグ」は大正6年3月に修理のため英国へ渡りますが、同年11月に発生したロシア革命により政権を奪取したたソヴィエト政府は修理代の支払いを拒絶したことから、「ワリヤーグ」は英国にに没収されてしまいます。

太守6年2月に英国海軍へ配属されますが、曳航中にアイルランド沖で座礁してしまいます。 その後引き揚げられハルクとして使用されたのち、大正9年にスクラップにするため、独国へ売却されます。

そして、独国へ曳航中に再びスコットランド沖で座礁ししてしまい、大正12年から15年にかけて現地で解体され姿を消します。

 

平成18年から19年にかけて、「ワリヤーグ」の座礁地点に近い英国スコットランドのレンダルフットに「ワリヤーグ」の記念碑が建設され、歴史の記録を残しています。

 

スコットランドのレンダルフットの巡洋艦「ワリヤーグ」記念碑(出典:Wikipedia(英語版))

(By pam fray, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14180559

 

第一次世界大戦でロシア海軍に譲渡された艦艇は「宗谷」の他にも、本国へ回航中に触雷し沈没した戦艦「相模」など、不遇な艦が多いですね。