今回は、「宗谷」を取り上げようと思います。非常に有名な船ですね。
帝国海軍の運送艦として運用された「宗谷」は、帝国海軍の運送艦から海上保安庁へ、そして南極観測船となった長寿艦です。
「宗谷」は海軍が建造したものではなく、商船として建造されます。昭和11年9月に川南工業がソビエト連邦通商代表部から砕氷型貨物船3隻を受注した内の1隻で、昭和11年12月に香焼島造船所で起工され、昭和13年2月に進水し「ボロチャベツ」と命名されます。
しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず、商船「地領丸」として昭和13年6月に竣工し、日清商船、栗林商船、辰南商船と所属を変えながら貨物船として運用されます。
建造当初から本船の砕氷性能に興味を持っていた帝国海軍は、昭和14年11月に「地領丸」の購入を決定します。そして、整備の後に昭和15年2月に「宗谷」と命名され特務艦(運送艦)籍に編入されます。
【要目】
基準排水量:3,800トン、垂線間長77.53m、最大幅:12.80m、吃水:5.77m
機関:直立式3段膨張レシプロ機関×1、推進軸:1軸、主缶:艦本式×1
出力:1,450馬力、速力:12.1ノット
兵装:8cm40口径単装高角砲×1
※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦艇史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P33
運送艦「宗谷」
(出典:世界の艦船「日本海軍特務艦艇史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P33)
大東亜戦争中には南洋への輸送任務に当たり、敵潜水艦から3度の雷撃を受けますが生還し、トラック大空襲でも生き残った「強運な艦」となります。そして、戦後は特別輸送艦(S119)となり、「宗谷丸」と改名し復員輸送に従事します。
特別輸送艦「宗谷」
(出典:「写真 太平洋戦争 第5巻」雑誌「丸」編集部、1989年4月、光人社、P298)
復員輸送後、「宗谷丸」は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事していましたが特別輸送艦の任務が解除されると、海上保安庁は「宗谷丸」を水路測量船としての使用を予定していました。ところが、急遽灯台補給船の代船が必要となったことから「宗谷丸」をこれに充てることとし、昭和24年2月に海上保安庁へ編入され「宗谷(LL-01)」と再改名されます。
灯台補給船「宗谷(LL-01)」
(出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P57)
「宗谷(LL-01)」は、灯台巡視船として5年間活躍した後、南極観測船として使用されることが決定、昭和30年11月から1ヶ月かけ船体等の総点検が行われ、巡視船(PL107)へ種別変更されます。
そして、昭和31年3月から10月にかけて南極観測船への改装工事が行われ、要目も大きく変化します。
【要目(改装完成時)】
総トン数:2,497トン、満載排水量:4,235トン、全長83.3m、最大幅:15.8m、深さ:7.0m
機関:ディーゼル×2、推進軸:2軸、出力:4,800馬力、速力:13.9ノット
搭載機:ベル47Gヘリコプター×2、セスナ180型飛行機×1
※出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P75
巡視船(南極観測船)「宗谷(PL-107)」(出典:Wikipedia)
(朝日新聞社 - =科学朝日 1957年11月号, 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=4031296による)
「宗谷」は昭和31年11月から昭和37年4月までに計6回の南極観測を行い、その間にも度々改装を受けます。そして、昭和40年7月に新型の南極観測船「ふじ(AGB-5001)」が海上自衛隊の砕氷艦として就役したことを受け、南極観測船としての任務から外れることになります。
その後も「宗谷」は巡視船として北方海域の流氷調査や流氷に閉じ込められた船舶の救援等に当たっています。
昭和47年から「宗谷」は海上保安学校(京都府舞鶴市所在)の練習航海に使用された後、昭和53年10月に解役され、商船「地領丸」時代から40年の現役を終えます。
解役後の昭和54年5月から東京お台場の「船の科学館で展示されており、現在唯一の海上に浮かぶ「帝国艦艇」となっています。
船の科学館て展示されている「宗谷」(出典:Wikipedia)
(natto - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4196040による)
実は、南極観測船「宗谷」になり損ねた船が存在しています。その船の名は「宗谷丸」と言い、鉄道省が北海道・稚内と樺太・大泊を結ぶ「稚泊航路」用に用意した鉄道連絡船です。こちらの船名も「宗谷」、少々ややこしいですね。
「宗谷丸」は横浜船渠で昭和7年6月に竣工し、12月から稚泊航路に投入されます。
【要目】
総トン数:3,593トン、全長94.49m、最大幅:14.17m、深さ:9.14m
機関:3段膨張レシプロ機関×2、推進軸:2軸、主缶:円缶×4、
出力:5,500馬力、速力:16.2ノット
※出典:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会編、1977年10月、原書房、P.22
および「本邦建造船要目表(1888-1945)」1976年5月、海文堂出版、P.138-139
鉄道省 鉄道連絡船「宗谷丸」(出典:Wikipedia)
(不明 - "Special ship pictorial", 1939, p. 5『海と空増刊 特殊船舶画報』海と空社、1939年、p.5, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63272543による)
「宗谷丸」はその後も一貫して稚泊航路での運行を続け、昭和20年7月には米潜水艦の攻撃を受けますが、護衛していた海防艦「第百十二号」が盾となり沈没したのと引き換えに、「宗谷丸」は無傷で乗り切ります。
そして、昭和20年8月にソ連軍が南樺太へ侵攻したため、樺太から本土への引き揚げ輸送に当たり、8月24日の「宗谷丸」稚内入港により稚泊航路の歴史は終わります。
昭和20年11月から青函航路へ転属しますが、この後海上保安庁の「宗谷丸」と灯台補給船の座を争います。しかし、測量艇のデリックを備えた海上保安庁の「宗谷丸」のほうが好都合であったことから、海上保安庁の「宗谷丸」に軍配が上がります。
鉄道連絡船「宗谷丸」は昭和27年9月から広島鉄道管理局所属の貨物船となり、室蘭-川崎-戸畑艦の石炭輸送に当たります。また、昭和29年10月から12月にかけ洞爺丸台風で打撃を受けた青函航路に一時的に復帰しています。
戦後、SCJAP No.が描かれている鉄道連絡船「宗谷丸」
(出典:世界の艦船別冊「日本の客船(1)1868-1945」野間恒・山田廸生、1991年7月、海人社、P217)
そして鉄道連絡船「宗谷丸」は、今一度海上保安庁の「宗谷」と争うこととなります。それは「南極観測船」の座でした。砕氷能力や船体の容量などは鉄道連絡船の「宗谷丸」のほうが勝っていましたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)、船齢等が比較された結果、最終的に海上保安庁の「宗谷」に軍配が上がり、再度敗れることとなります。
「宗谷丸」は昭和33年11月から石炭輸送と共に訓練船としても使用されるようになり、昭和40年8月の退役まで一貫して鉄道省・日本国有鉄道で運用され続けました。
北海道・稚内港の「稚泊航路記念碑」
「宗谷丸」の号鐘(模造)が吊るされている
(出典:北海道 稚内観光情報HP)(https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/midokoro/spot/chihakukorokinenhi.html)
海上保安庁の「宗谷」と鉄道連絡船の「宗谷丸」は、船名がほぼ同じこともあり書籍によっては混同されていることもあるようです。鉄道連絡船の「宗谷丸」は海上保安庁の「宗谷」の陰に隠れてしまっていますが、樺太からの引揚という歴史の1ページに関わった船としてもっと知られて欲しいですね。
なお、帝国海軍では「宗谷」の先代として二等巡洋艦「宗谷」が存在します。
二等巡洋艦「宗谷」(出典:Wikipedia)
(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=876827)
また、海上保安庁の巡視船にも「そうや(PLH-01)」が存在します。
ヘリコプター搭載巡視船「そうや(PLH-01)」(出典:Wikipedia)
(U-310 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14920429による)
いずれも、そのうち取り上げてみたいと思います。