ロシア海軍と帝国海軍を渡り歩いた戦艦「相模」 | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

日露戦争では、帝国海軍はロシア海軍の軍艦を多数捕獲・編入しています。その中でも悲劇の戦艦を取り上げます。その戦艦はロシア海軍での名を「ペレスウェート」、帝国海軍での名を「相模」と言います。

ロシア戦艦「ペレスウェート」は明治28年11月にロシア・サンクトペテルブルクで起工され、明治34年6月に就役し、太平洋艦隊に編入されます。

「ペレスウェート」は同型艦に「オスラービヤ」「ポベーダ」を持ち、艦隊決戦に加え通商破壊作戦も念頭に置いていたため、他の戦艦に対して速力や航続力では優位に立つものの兵装、装甲等は抑えられており、装甲巡洋艦の拡大版的な設計がなされています。

【要目】

 垂線間長:133.4m、幅:21.8m、平均喫水:7.9m

 常備排水量:12,674トン、機関:3段膨張式レシプロ機関×3、

 缶:ベルビール式水管缶×30、推進軸:3軸

 出力:14,500馬力、速力:18ノット、乗員:745名

 兵装:25.4cm40口径連装砲×2、15.2cm45口径単装砲×11、7.6cm50口径単装砲×20、

     4.7cm43口径単装砲×20、38cm魚雷発射管×5

 出典:Wikipedia

 

戦艦「ペレスウェート」(出典:Wikipedia)

 

日露戦争では太平洋艦隊の他の軍艦と共に旅順港に留まり、これらを旅順港に閉じ込めるために有名な「旅順港閉塞作戦」が行われます。そして、旅順港からウラジオストクへ向け太平洋艦隊が脱出を図ったことに端を発する「黄海海戦」が行われ、脱出は失敗に終わります。

そして、帝国陸軍による陸上からの攻撃にさらされるようになると旅順港に「ペレスウェート」を含めたロシア軍艦艇は自沈・着底し太平洋艦隊は壊滅します。

旅順港で着底した戦艦「ペレスウェート」(出典:Wikipedia)

 

旅順を攻略した後、帝国海軍は旅順港に着底している艦艇を浮揚・再整備を計画します。「ペレスウェート」は浮揚後、日本へ回航途中の明治38年8月に戦艦「相模」と命名されます。日本回航後は横須賀で本格的な修理が行われ、明治41年秋に修理を完了します。艦隊編入後は、「相模」とほぼ同じ経緯で帝国海軍戦艦となった同型艦の「周防」(旧ロシア戦艦「ポベーダ」)と組んで活動を始めます。

戦艦「相模」(出典:Wikipedia)

 

第一次世界大戦が勃発すると、同じ連合軍となったロシア海軍からの要請により返還されることとなり、戦艦「丹後」、巡洋艦「宗谷」とともに大正5年4月に帝国海軍艦艇籍から除かれ、ウラジオストクでロシア海軍に引き渡され艦名も「ペレスウェート」戻されました。

ところが、引き渡し後の大正5年5月23日にウラジオストク港外で座礁してしまい、帝国海軍の手配により浮揚し舞鶴海軍工廠で修理を受けます。さらに欧州回航中の大正6年1月4日にはスエズ運河を通過し白海への回航中にエジプト・ポートサイド北方で独潜水艦(U-73)が敷設した機雷に触れ沈没しロシア海軍に寄与することなく最期を迎えます。

ウラジオストク港外で座礁した「ペレスウェート」(出典:Wikipedia)

 

「相模」は捕獲された他のロシア海軍艦艇と同様に帝国海軍の戦艦としては大きな活躍もなく、地味な存在でしたが、世界情勢に翻弄された艦として記憶に留めておくべき艦であると思います。