大阪生まれの2隻の駆逐艦「杉」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

 日立造船桜島工場の前身である大阪鉄工所で建造された艦艇についての続編です。大阪鉄工所では初期の駆逐艦を3隻建造しています。明治39年11月に「朝風」型三等駆逐艦の「朝露」が、翌40年6月に同型の「疾風」が竣工しています。また、大正4年4月に「樺」型二等駆逐艦の「杉」が竣工しています。
 「樺」型駆逐艦は、第一次世界大戦が勃発した際に、新型駆逐艦の不足が課題となった帝国海軍が、当時最新鋭であった「桜」型の図面を流用し急造することとなった10隻を指します。
【要目(新造時)】
 基準排水量:595トン、全長82.9m、幅:7.3m、吃水:2.4m
 機関:直立4気筒三連成レシプロ×3、缶:ロ号艦本式×4、推進軸:3軸
 出力:9,500馬力、速力:30ノット
 兵装:40口径12cm単装砲×1、40口径8cm単装砲×4、
     45cm連装魚雷発射管×2
 (出典:世界の艦船別冊「日本駆逐艦史」)
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「樺」型駆逐艦「樺」(出典:Wikipedia)
 
 この駆逐艦「杉」ですが、大正6年には当時激しく欧州で戦闘が行われていた地中海方面へ派遣され、Uボートから輸送船団を守るための船団護衛に従事しました。昭和7年4月には「樺」型全隻が除籍されています。
 
 二代目の「杉」は大東亜戦争後期の護衛艦として建造された「松」型駆逐艦が引き継いでいます。こちらも大阪の造船所である藤永田造船所で建造され、昭和19年8月に竣工しました。
【要目】
 基準排水量:1,262トン、全長100.0m、水線幅:9.4m、吃水:3.3m
 機関:艦本式タービン×2、缶:ロ号艦本式×2、推進軸:2軸
 出力:19,000馬力、速力:27.3ノット
 兵装:40口径12.7cm連装高角砲×1、同単装高角砲×1、
     25mm3連装銃×4、同単装機銃×8、61cm4連装魚雷発射管×1
 (出典:世界の艦船別冊「日本駆逐艦史」)
 
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駆逐艦「杉」 (出典:ハンディ版日本海軍艦艇写真集18)
 
 
 就役早々、捷一号作戦において小沢機動部隊の一艦として空母「瑞鶴」などと共にレイテ湾へ突入する予定で本隊と合流すべく内地を離れましたが、途中で米艦隊と思われる艦隊と遭遇したために反転し台湾・高雄に向かいました。このためエンガノ岬沖海戦には参加せず、奄美大島を経由し10月には内地に帰投しました。
 その後はフィリピン方面への輸送作戦に護衛部隊として活動しましたが、昭和20年3月以降は呉方面での訓練に使用され終戦を迎えます。
 終戦後は復員輸送に従事した後に、賠償艦として昭和22年7月に中華民国へ引き渡されます。
 
 「杉」の名は戦後に引き継がれ、三代目の「すぎ」が登場します。戦後に結成された警備隊に対し米国より貸与された「タコマ」型フリゲートの一艦「コロナド(PF-38)」で、昭和28年11月に引き渡しに際して「すぎ(PF-5)→(PF285)」と命名されました。
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昭和39年当時の「すぎ(PF-285)
(出典:丸スペシャル 「護衛艦くす型/警備艇ゆり型」
 
 「すぎ」は昭和44年3月に除籍され、同46年7月に米国に返還されたものの、実艦標的として無償供与されることとなり、大型艦艇としては戦後初めて8月に野島崎沖で護衛艦隊の砲火により沈められました。
 
 戦前の大阪では民間造船所が発達し、民間船舶を中心に多数の船を建造していました。その中で少数ではありますが海軍艦艇も建造しています。また、藤永田造船所は「駆逐艦の藤永田」と呼ばれるほど、駆逐艦を多数建造しています。
 藤永田造船所で建造された他の艦艇も取り上げてみたいですね。