今回は、これまた数奇な運命を辿った旧帝国海軍主力艦について書いてみたいと思います。
その軍艦の名は「朝日」と命名され、日露戦争時における帝国海軍の新鋭戦艦として活躍します。本艦は日清戦争後のロシアの脅威に対抗するため明治30年度に計画・速やかに英国のジョン・ブラウン社へ発注され、同30年8月には起工されます。明治33年7月31日に竣工し日本へ回航されます。
【新造時要目】
垂線間長:122.1m、水線幅:22.9m、喫水:8.3m
常備排水量:15,200トン、機関:3連成レシプロ機関×2、缶:ベルビール缶×25
馬力:15,000HP、速力:18ノット、乗員:836名
兵装:30cm40口径連装砲×2、15cm40口径単装砲×14、8cm40口径単装砲×20
4.7cm単装砲×12、45cm魚雷発射管×5
出典:福井静夫著作集 第一巻 「日本戦艦物語(1)」
戦艦「朝日」(Wikipediaより転載)
連合艦隊に配属された「朝日」は明治37年から38年にかけて行われた日露戦争に参戦、黄海海戦・日本海海戦などの主要海戦を旗艦「三笠」や「敷島」などと共に戦いました。
第一次大戦時には、ロシア・ウラジオストク方面の警備を行い、大正7年からは第三艦隊に所属しロシア沿岸警備を続けることとなります。そして大正10年には戦艦から海防艦へ類別が変更され、第二線兵力に位置付けられることとなります。
【大正12年の要目】
常備排水量:14,765トン、馬力:15,207HP、速力:18ノット、乗員:738名
兵装:30cm40口径連装砲×2、15cm40口径単装砲×14、8cm40口径単装砲×20
8cm単装高角砲×2、6.5cm機銃×3、45cm魚雷発射管×4
出典:日本海軍全艦艇史(資料編)
しかし、ワシントン海軍軍縮条約により海防艦「朝日」は廃棄対象となり、大正12年4月に軍艦籍から外され「練習特務艦」となり、翌13年3月には武装解除されてしまいます。「敷島」「富士」などの旧戦艦も同じく武装解除され、係留状態で講堂などに利用されますが、「朝日」のみは別の用途での使用が計画されます。
その用途とは「潜水艦救難艦」としての用途でした。前回に登場した海上自衛隊の「ちよだ」の元祖ともいうべき艦となります。
当時の救難方式としては、舷側に取り付けたブラケットにワイヤを取り付け、片舷に救助する潜水艦を、反対舷に廃棄した潜水艦を取り付け、井戸で水をくみ上げる「つるべ」の原理で救助する潜水艦を吊り上げるという方式でした。また、簡易な工作艦としての設備も設けます。
昭和12年には本格的に工作艦として使用するため、潜水艦救難用のブラケットを撤去し、類別も正式に「工作艦」となります。
【昭和13年の要目】
垂線間長:122.1m、水線幅:22.9m、喫水:6.93m
基準排水量:11,441トン、機関:3連成レシプロ機関×2、缶:ロ号艦本式缶×4
馬力:15,000HP、速力:12ノット、乗員:286名
兵装:8cm40口径単装広角砲×2
出典:日本海軍全艦艇史(資料編)
そして、工作艦として支那事変に参戦、この頃から、旧前部主砲塔跡に木製の「偽砲」を装備し、往年のイメージがよみがえります(原則の装甲はありませんが…)。
※前部に偽砲が見える
さらに艦齢40年を超えた老艦は太平洋戦争にも参戦します。大戦勃発により現・ベトナムのカムラン湾に進出、シンガポールが陥落すると、同地まで進出し艦船の修理業務にあたります。
そして、シンガポールから内地へ向けて帰投中の昭和17年5月に、カムラン湾南東付近で米国の潜水艦により魚雷攻撃を受け最期を迎えます。
日露戦争での華々しい活躍、極寒のロシア極東方面での警戒任務、潜水艦救難艦という当時最新の技術を取り入れた「革新的」特務艦、そして戦場の非常に重要な裏方である工作艦任務と数々の転身を行った艦として、記録に残すべき艦ではないでしょうか。