るしるしルシアンで~すにひひ


先日の宗教のハナシ(「ニューカマー外国人と日本社会」のイスラム礼拝から、日本にも宗教があればいいのに)で、イスラム教がすばらしいと思った根拠を、うろ覚えでざーっと書いたので、「?」と思われたかもしれないと思い、もちょっと本の記述をちゃんと書いておこうと思います。


ルシアンのブログ
もっと知ろう!! わたしたちの隣人―ニューカマー外国人と日本社会
加藤 剛 (著)
世界思想社 (2010/3/2)



アッラーについて
------------------------------------
「アッラーという名の神さまを信じる」のではなく、「宇宙を想像し主宰する唯一の根源的存在を指すアラビア語がアッラー」なのである。

したがって、アラビア語圏のキリスト教徒も彼らの信仰する神のことをやはりアッラーと呼ぶ。
------------------------------------
「もっと知ろう!!わたしたちの隣人 ニューカマー外国人と日本人」加藤剛編 世界思想社 
210ページより抜粋



ムスリムの実践する宗教行為について
------------------------------------
ムスリムが一生を通じて守るべき信仰実践のなかには、五つの行いがある。そのうち四つは、義務としては一生に一度行えばよい信仰告白とメッカ巡礼、一年に一ヶ月間、日中行いえばよい断食、経済的にある程度裕福な者だけに課される喜捨である。

これらに比べ、すべてのムスリムが毎日五回にわたって行わなければならないのが礼拝で、この点で礼拝は、イスラームの日常的な信仰実践の中で中心的な位置を占める。

五行は五柱とも訳されるが、筆者の実感からいっても、立礼と平伏礼を繰り返す全身動作を伴う日々の礼拝こそが、アッラーの存在を至近に感じながら自分がその絶対的存在に帰依する者、すなわちムスリムであることを日々確認し、信仰を深めていく文字通りの「柱」なのである。


いくつも種類のあるイスラームの祈りのうち、毎日五回と定められた義務の礼拝(サラート)は、神に対する「お願いごと」ではない。アッラーに何かのお願いごとをする祈りはドゥアーと呼ばれ、沙良ートとは明確に区別される。礼拝は、何かを神に求めるのとは逆に、自分の一切をアッラーに捧げる気持ちで行うものである。
------------------------------------
同著 211~212ページより抜粋



絶対的存在に自分を捧げるという気持ちを、日々の全身動作によって刻みつけ、習慣づけているところが、すばらしいと思うのです。
人は大切なことから忘れるものだから。この習慣づけゆえに、イスラムがここまで発展したのだろうと思います。

高校の歴史の授業で、「踊りを取り入れることによって、言葉が通じない地域にも教えを広げることができた」と習ったときも「頭イイっ」って思ったな~。

あれなんてったかな、そう、スーフィー!

テストに出たなw




本では、日本に住むイスラム教徒は、この大切な五回の礼拝をする場所と時間がないので、精神的にかない苦痛らしいです。
スミマセン・・・ショック!


ほかにもイスラムがいいと思ったことですが、寄付の心。
------------------------------------
どこのモスクの入り口にも寄付のための募金箱が常設されており、金曜礼拝の際にも説教の合間に小さな募金箱が回される。これらは強制ではないにもかかわらず、たいていのムスリムがそれぞれの経済力やたまたま持ち合わせた金額に応じて浄財を投じる。その額は、日本のコンビニなどで見かける災害募金の類とは桁が違う。一円玉や十円玉程度の小銭が投じられることはまずあり得ない。特にモスク設立基金などと募金の目的が明記されている場合は、一人で一万円札を何枚も投じることも珍しくない。しかもきわめてさりげなく、である。一般にムスリムの寄付行為はどんな高額でも匿名で行われることが多い。アッラーがすべてをご覧になっていると信じているから、寄付者名簿を作成したり、建物に銘板を飾るといった発想は薄い。ムハンマドの言行録の中に「サダカは右手がやっていることを左手が知らぬほどひそかに行うべきものだ」という有名な一文があるほどである。
------------------------------------
222~223ページより抜粋



ぉおおおおお~~~キラキラキラキラキラキラ天使
すっスバラシイイイイイイ






とまあ、イスラムはとてもいい宗教だと思うし、よく知らないけれどキリスト教もいいと思う。でも、だからといって全面的に彼らのしたいことを支援すべきかというと、別問題・・

これについてはさらに考えたいので次にまわしますっモグラ