曹源寺       自他の対立を越える | 野菜づくり 市民農園の人たち

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市民農園の様子です

今日もにこやかにお話をされる原田老師

8月3日行われた曹源寺バザーで老師の書を買われた参禅者が武道もされており、

書を見たときすごい波動を感じられたそうです。

 

 

参禅者からの問い

「菩提心を発(おこ)す」 との意味は?

 

我々は生まれたとき菩薩として生まれてくる

聖徳太子はなぜ日本に仏教を取り入れたのか?

聖徳太子は、日本を菩薩の国とする発想から、仏教を日本の精神の根底としようとした。

唐の国に習って社会が仏法僧の3法を敬うこと、それによって社会が豊かに心が休まることを

願った。そして17条の憲法を定めた。第2条が「篤く三宝を敬え 三宝とは仏、法、僧なり

ここで言われた仏法僧は形ではなく内的な姿を意味していた。邪念のない清らかな心が仏さま。

見る聞く味わう匂う触れる心が思うなどの窓を通して、清らかな心がこの世界に直結して現れる。

自他の対立が無いということ。それがこの世界を平和にし、清めている。それが三宝を敬う理由になっている。菩提心をおこすということは、生まれながらの清らかな心に立ち返り、その心でこの世界をとらえれば、この世界は皆兄弟。皆自分の清らかな心の表れた世界なのだ。それに目覚める。それが悟り。

その心でこの社会を救いましょう・・・これが菩提心をおこしましょう---ということです

外に特別なものを作るのではなく、自身の心を静かに、座禅をして、念仏題目を唱えて、心が清らかになれば誰でもそんな働きが生まれる(境地になれる?)。そういうことを理解した人たちが多くなり、清らかな心を持った人たちがこの世界を共有し。どうすれば社会を正しく導いていけるか、その努力をしましょうということ。

現状は違う、政治の腐敗や経済の不安、世界情勢の不安、色々な摩擦がある、そんな現状を我々の心がどのように清めていけるか。我々がどのように努力していけるか、努力を怠ればこの世界は破滅しかない。

 

参禅者からの問い

「仏法僧、仏と法の違いは?」

お釈迦さんの時代には、仏が無かった。お釈迦さんの人格を尊敬して、人が「この人は仏だ」と言って

仏が始まった、釈迦は清らかな心に立ち返ることを説き、それが法であった。釈迦が修行し弟子を教育する中で釈迦自身が法に目覚めていった。

1つの真理を求めて、心清める道を求めて修行するひとで、僧は3人以上の修行者がいれば僧といった。

釈迦の時代に耶舎(ヤシャ)という青年がいた。彼は大富豪の息子で享楽の限りを尽くしていたが、享楽過ぎて哀感多しで自殺を考えるようになり、放浪し、たまたま釈迦の修行場に行った。釈迦の清らかな姿に感動しすぐ弟子になった。

彼の父は彼を捜して釈迦を訪ね、その姿に感動した、彼は釈迦を見て仏陀(覚った人)と叫び、これが

仏陀のはじまりになった。

聖徳太子は出家していなかったので実質的に帰依する一体三宝として仏法僧を扱い、心の世界の和合に導いた。(一心三宝)

聖徳太子の叔母、推古天皇が拝した仏壇は仏典の自己犠牲の物語の図が載っているものでした。

推古天皇が摂政の聖徳太子を後ろ盾としていたので、仏教が広まった。