日本語では情報を読み、外国語では世界に浸っていた
日本語では、読書といえば専門分野と興味分野が多い人生でした。ところが、ロシア語やフランス語に触れていると、不思議と古典文学を読みたくなるのです。原語で話をしたい、聞いてみたいと思える人に出会えたことが大きかったのだと思います。むしろ、翻訳や先入観が入る前のタイミングで出会えたのは、幸運だったのかもしれません。日本語は、自分にとって情報を取りに行く言語になっています。一方で、ロシア語やフランス語は、世界に浸る言語に近い感覚があります。外国語というのは、最初は頭の中で母語に翻訳しながら理解していくものだと思っていました。ですが、気づいたときには、母語を経由せずに聞いていました。とくにヨーロッパの言語には、歌うように話すものが多くあります。意味を一つずつ訳して理解しているというより、音の空気感ごと、そのまま受け取っている感覚に近かったのです。だから自分にとっては、読むというより、聞く感覚に近いのだと思います。母語は実用と結びつきやすく、内容を素早く理解する方向に意識が向きます。そのため、知識や情報を効率よく吸収する読み方になりやすいのでしょう。もちろん、外国語でもそうした傾向が完全になくなるわけではありません。ただ、外国語では意味だけでなく、言葉の選び方、文の流れ、響き、沈黙がより強く気になるのです。そこには、その人がどのように世界を見ていたのかという、認識の形そのものが現れます。さらに興味深かったのは、多言語状態になると、脳が単一の思考回路に固定されにくくなることでした。多言語状態は、単に話せる言語が増えることではなく、世界を見るための窓が増えることなのだと思います。その結果として、同じ現実は平面的なものではなく、厚みを持った立体構造として立ち上がってくるのです。