以下の内容は、あくまで首里手・泊手限定です。
また競技やスポーツとして空手を稽古しているのであれば、あまり関係ありません。

一応空手家が「その基本のやり方は間違っている」という趣旨を書くのですから、あくまで内容は武術(殺人技法)限定です。

その辺を取り違えないよう、誤解なきようご留意下さい。

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さて、首里手中興の祖と謂われる松村宗棍の口碑が伝わっていますが、その中からいくつか要訣を抜粋しましょう(これ以外にもあといくつか重要な要訣がありますが、ここでは触れません)。

・手は足より先
・スピードこそ最優先
・無構え
・一拍子(無拍子)



これらの要訣は、首里手の精髄を表しています。
首里の武士達が戦闘技術の一環として学んだものゆえ、護身術ではありません。
その辺が、護身術的なニュアンスに溢れる那覇手と決定的に違うのです。

那覇手は交易商人や渡来職人達が伝承した技法ですから、おのずと目的が異なるのです。
これはどちらが良いかの優劣論ではありません。
このあたりを理解しない限り、首里手を理解することはあり得ません。

そして首里手を本当に理解し上記要訣を実現するには、武士道の根本的精神の理解が必要不可欠です。
『武士道とは死ぬことと見つけたり』の本当の意味を理解し、それを直感的に体現するのが首里手です。

厳しい事を書きますが、基本といえども、移動基本といえども、

『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』
『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、踏み込みゆけばあとは極楽』


を体現出来るようなやり方になっていないと、稽古する意味が乏しいのです。
つまりその場に居着いた、スピードのない、二拍子の、ルーチンワーク的かつ体育的な稽古となってしまうと、真の技法は全く得られないのです。

これは武士のように気合を入れるとか、勇ましくやる(取り組む)などという話では全くありません。
気力は必要ですが、気合やしかめっつらは不要ですし、勇ましさやストイックさも必要ありません。



遅まきですが、私は1年ほど前に、ようやく首里手の精髄と武士道の精神の本当の意味での関連に気がつきました。
そしてこの数カ月間に、武器術をはじめとするいくつかの試行錯誤と気づきを得て、それは今では確信に変わっています。

特に武器術において、ただの演武とそうではない本当に人殺しのやり方の違いを実感する機会があったことで、首里手の本当の姿が良く分かるようになりました。


なぜ首里手武士は重力を自分の味方に引き入れることを思いついたのか、なぜ彼らはスピード最優先なのか、そしてなぜ彼らは一撃必殺をテーゼとするようになったのか。
薩摩示現流の技法や様式は、よく言われるほど大きな要因ではありません。
それより、

『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』
『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、踏み込みゆけばあとは極楽』


の世界観こそが最も重要なのです。

(後編に続く)