矢田地蔵尊(矢田寺)
山脇東洋解剖碑
の次に訪れたのは
京都市中京区寺町通三条上ル523にあります
矢田地蔵尊(矢田寺)
見るからに手を合わせたくなる感じだったので
入ってきました
案内板に書かれてあることはこんな感じです
金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で
通称 矢田地蔵の名で知られている
寺伝によれば 当寺は平安時代の初め
大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)
に創建され 以後 寺地を転々とし
大正7年(1579年)に現在の地に移されたと言われている
本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は
高さ約2mの立像で開山の満慶(満米)上人が冥土へ行き
そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ
俗に代受苦地蔵と呼ばれ 地獄で亡者を救う地蔵として
人々の信仰を集めている
また 当事の梵鐘は六道珍皇寺の迎え鐘に対し
送り鐘と呼ばれ 死者の霊を迷わず冥土へ送るために
撞く鐘として人々から信仰され
1年を通じて精霊送りには多くの参拝者で賑わう
次は 大本山 本能寺 へ
京都市中京区寺町通三条上ル523にあります
矢田地蔵尊(矢田寺)
見るからに手を合わせたくなる感じだったので
入ってきました
案内板に書かれてあることはこんな感じです
金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で
通称 矢田地蔵の名で知られている
寺伝によれば 当寺は平安時代の初め
大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)
に創建され 以後 寺地を転々とし
大正7年(1579年)に現在の地に移されたと言われている
本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は
高さ約2mの立像で開山の満慶(満米)上人が冥土へ行き
そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ
俗に代受苦地蔵と呼ばれ 地獄で亡者を救う地蔵として
人々の信仰を集めている
また 当事の梵鐘は六道珍皇寺の迎え鐘に対し
送り鐘と呼ばれ 死者の霊を迷わず冥土へ送るために
撞く鐘として人々から信仰され
1年を通じて精霊送りには多くの参拝者で賑わう
次は 大本山 本能寺 へ
山脇東洋解剖碑
浄土宗 正覚寺
の次に訪れたのは
中京区新京極通三条下ル桜之町453
浄土宗西山深草派の総本山
誓願寺墓地内にあります山脇東洋解剖碑
碑を見つけるアンテナが最近育ってきたと自分で思う
でも 行き当たりばったりでも見つかると嬉しいよね
誓願寺墓地内に、江戸中期の医者山脇東洋(1705年~1762年)
はじめ山脇家が解剖した遺体の供養碑がある
東洋は丹波亀岡の生まれ
山脇玄修に学んで養子となり、後藤艮山に古医方を学び、実験主義を提唱した
宝暦4年(1754年)、死刑人を解剖し、その成果を「蔵志」と名付けて刊行した
有名な杉田玄白の解剖は明和8年(1771年)で、それに先立つこと17年、わが国初の医学的解剖である
その後も山脇家では解剖を重ね、その遺体14柱の供養碑がこの墓地にある
日本医学史上の記念すべき供養碑といえよう
次は矢田地蔵尊(矢田寺) へ
中京区新京極通三条下ル桜之町453
浄土宗西山深草派の総本山
誓願寺墓地内にあります山脇東洋解剖碑
碑を見つけるアンテナが最近育ってきたと自分で思う
でも 行き当たりばったりでも見つかると嬉しいよね
誓願寺墓地内に、江戸中期の医者山脇東洋(1705年~1762年)
はじめ山脇家が解剖した遺体の供養碑がある
東洋は丹波亀岡の生まれ
山脇玄修に学んで養子となり、後藤艮山に古医方を学び、実験主義を提唱した
宝暦4年(1754年)、死刑人を解剖し、その成果を「蔵志」と名付けて刊行した
有名な杉田玄白の解剖は明和8年(1771年)で、それに先立つこと17年、わが国初の医学的解剖である
その後も山脇家では解剖を重ね、その遺体14柱の供養碑がこの墓地にある
日本医学史上の記念すべき供養碑といえよう
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ものはつかいよう【天地人日記】
何事でも言えることですが
ものは使いようで良いことにもなるし
悪いことにもなりますね
人の想いというものがそこにかかってきます
直感も大切ですが 何度も話を重ねることで見えてくることの方が多いでしょう
第一印象も大半だけどね~



ドラマ感想一覧
NHK大河ドラマ 天地人
ものは使いようで良いことにもなるし
悪いことにもなりますね
人の想いというものがそこにかかってきます
直感も大切ですが 何度も話を重ねることで見えてくることの方が多いでしょう
第一印象も大半だけどね~
ドラマ感想一覧
NHK大河ドラマ 天地人
浄土宗 正覚寺
阪急電鉄 河原町駅を降りてテクテク歩いていると
見つけた寺院
京都市中京区裏寺町通蛸薬師下ル裏寺町599にあります 浄土宗 正覚寺
浄土宗知恩院派の寺院で通称は赤門さんと言われているそうです
赤門は1605(慶長10)年にこの寺を末寺とする支配権をめぐって
宗派内で知恩院と誓願寺が対立
時の京都所司代板倉伊賀守および南禅寺金地院崇伝住持の仲裁により
知恩院の末寺となります
その際1615年(皇紀2275)元和元年
伏見城の赤門が移築されたと言うことです
先斗町のそばにあるため
花街の人達の信仰も集めているそうですよ
奥までは行ってないけど
京都に来て一番最初に素敵な所を発見できてラッキーでした
次は 山脇東洋解剖碑 へ
見つけた寺院
京都市中京区裏寺町通蛸薬師下ル裏寺町599にあります 浄土宗 正覚寺
浄土宗知恩院派の寺院で通称は赤門さんと言われているそうです
赤門は1605(慶長10)年にこの寺を末寺とする支配権をめぐって
宗派内で知恩院と誓願寺が対立
時の京都所司代板倉伊賀守および南禅寺金地院崇伝住持の仲裁により
知恩院の末寺となります
その際1615年(皇紀2275)元和元年
伏見城の赤門が移築されたと言うことです
先斗町のそばにあるため
花街の人達の信仰も集めているそうですよ
奥までは行ってないけど
京都に来て一番最初に素敵な所を発見できてラッキーでした
次は 山脇東洋解剖碑 へ
□ 中央区 旧町名継承碑 大川町
大阪市西区江戸堀1-2-1
にあります
西横堀川跡から
土佐堀通を挟んで
対面ぐらいにあります
中央区 旧町名継承碑 大川町

町名は 昔 淀川本流であった土佐堀川・堂島川を
大川と呼び慣わしていたことに由来し
この町の前を流れていることによるそうです
北浜3丁目~4丁目の各一部だそうですよ
次は 林市蔵先生肖像へ
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
□ 中央区 旧町名継承碑 横堀1~7丁目
大阪市西区江戸堀1-2-1
にあります
西横堀川跡
の隣で見つけました
中央区 旧町名継承碑 横堀1~7丁目

町名は西横堀川に沿う町であることに由来するそうです
北浜・今橋・高麗橋・伏見町・道修町・平野町
淡路町・瓦町・備後町・本町・南本町・船場中央
久太郎町・北久宝寺町・南久宝寺町・博労町
の各4丁目の一部だそうですよ
次は中央区 旧町名継承碑 大川町へ
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
西横堀川跡
信濃橋洋画研究所跡
の次に訪れたのは
大阪市西区江戸堀1-2-1に 大同生命大阪本社ビルの近く
土佐堀通り沿いにあります西横堀川跡
上には阪神高速1号環状線が通っている所です
西横堀川は土佐堀川と道頓堀川をつなぐ川だったそうです
市内中央部を走る掘割は東西方向のものが多く、南北に流れるのは木津川を別にすると、
大川の水を分けて南流し道頓堀川となる東横堀川と、この西横堀川だけでした
橋の名前が残っているところも多い分
川の跡もあちらこちらにありますね~
もっと探してみると面白いかも
次は 中央区 旧町名継承碑 横堀1~7丁目 へ
大阪市西区江戸堀1-2-1に 大同生命大阪本社ビルの近く
土佐堀通り沿いにあります西横堀川跡
上には阪神高速1号環状線が通っている所です
西横堀川は土佐堀川と道頓堀川をつなぐ川だったそうです
市内中央部を走る掘割は東西方向のものが多く、南北に流れるのは木津川を別にすると、
大川の水を分けて南流し道頓堀川となる東横堀川と、この西横堀川だけでした
橋の名前が残っているところも多い分
川の跡もあちらこちらにありますね~
もっと探してみると面白いかも
次は 中央区 旧町名継承碑 横堀1~7丁目 へ






